黙示録の言いたかったこと

黙示録を読み始めると、初めの部分は手紙形式で書かれていますので、現代に生きる私たちにも良く理解することができます。
でもその次の部分からは「黙示文学」という形式で書かれていますので、その真意を理解することが困難です。
教会の中でも様々な立場があります。
ですからもっとも妥当と思える解釈の立場に立つことが大切です。

1.それは預言の言葉を具体的な事象に軽々しく当てはめないことです。

もちろんそのようにしている人々は、そのような自覚なくやっているから困った者であるのです。
旧約聖書には「預言がはずれた預言者は死ななければならない」と書かれてあります。
現代の預言者運動の人々は「旧約時代の預言と新約時代の預言は違う」と言いますが、これは詭弁に過ぎません。
なぜなら初代教会時代に存在した預言者たちの預言はみな当たったからです(大飢饉が訪れることや大迫害が来ること)。
それに比べて現代の自称・預言者たちの預言は当たる方が稀(まれ)です。
彼らは偽預言者であり、彼らが言うことを信用してはなりません。

2.世の終わりの向こう側に新天新地が備えられてあります。

①私たちのために備えられた新しい永遠の都は、幾つかの特徴を持っています。

それは都の真ん中を「命の水の川」が流れているということです。
そしてその川の両岸には「命の木」が植わっており、絶えず豊かに実が実っています。
また「命の木」の葉っぱは、諸国民を癒すことが出来るというのです。
この個所にはクリスチャンが留意しなければならないことがあります。

②「命の木」とは創世記の初めの部分に出てくるエデンの園にあった「命の木」です。

これは何を意味するかと言いますと、アダムの堕落によって神との交わりが断絶された人類が、ついに神との全人格的交わりが回復されたということを指しているのです。

③「命の木」とは、私たちクリスチャンを現しています。

a.私たちが豊かな実を結ぶためには、私たちが命の水の川の岸辺に住んでいる必要があります。

b.葉っぱは人を癒すのですが、葉っぱに優って大切なのは実です。
実とは、御霊の実であり、人格的成熟という実質を指しています。
葉っぱだけ繁って実がならなかった木を、イエスは呪われました。

3.黙示録に記された預言の言葉を、付け加えてはならないし、取り除いてもならない。

①聖書の教えを少しでも取り除いてはなりません。

黙示録に書かれてあることは、ある意味では奇想天外な内容です。
しかしこれを現代人にも納得がいくようにという配慮の元に改変することは決して許されることではありません。
これはリベラル派キリスト教がやっていることそのものです。
聖書は聖書によって解釈するという原則を守らなければなりません。
そうでなければ教会や信仰者個人に、霊的な神の命の水の川が流れてくることはありません。
ひからびて骸骨(がいこつ)のようになってしまいます。

②聖書の教えに付け加えてはなりません。

付け加えるとは具体的には何を意味するのでしょうか?

a.本来は個人の自覚的決断によってなされるべき信仰の応答が、脅迫や教え込みや洗脳によって行われてしまうことです。

b.本来は恵みへの感謝の応答であった献金・奉仕・伝道・礼拝が、信仰のバロメーターとして評価の対象になってしまうことです。

③聖書を現実の問題に適用しなければなりません。

では、取り除くことをせず、付け加えることもしなければ、それで良いのでしょうか。
いいえ、そうではありません。
聖書の教えを金科玉条のごとく崇め奉るのではなく、福音を現実の困難な問題に適用し、答えを提示することが必要です。
そのようなとき初めて、神の栄光を現すことが可能になると考えます。

◎刻一刻、終末に近づきつつあります。
しかし私たちは「今日一日を生きる」というスピリットをもって信仰生涯を全うさせていただきたいものです。

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