ヨハネの黙示録を正しく解釈するために大切な三つのこと

黙示録の初めの部分は手紙形式で書かれていますので私たちにも良く理解することができます。
しかし途中からは「黙示文学」という形式で書かれていますので真意を理解することが困難です。
それで教会の中でも様々な解釈があります。
そのようなわけで妥当と思える解釈の立場に立つことが大切です。

1.黙示録を解釈する原則

それは預言の言葉を具体的な事象に軽々しく当てはめないことです。
もちろんそのようにしている人々はそのような自覚なくやっています。

旧約聖書には「預言がはずれた預言者は死ななければならない」と書かれてあります。
現代の預言者運動の人々は「旧約時代の預言と新約時代の預言は違う」と言いますが、これは詭弁に過ぎません。

なぜなら初代教会時代に存在した預言者たちの預言はみな当たったからです(大飢饉が訪れることや大迫害が来ること)。
それに比べて現代の自称・預言者たちの預言は当たるほうが稀(まれ)です。
彼らは偽預言者であり、彼らが言うことを信用してはなりません。

2.新しい永遠の都が持っている特徴

それは都の真ん中を「命の水の川」が流れているということです。
そしてその川の両岸には「命の木」が植わっており、絶えず豊かに実が実っています。

また「命の木」の葉っぱは諸国民を癒すことが出来るというのです。
この個所にはクリスチャンが留意しなければならないことがあります。

①「命の木」はエデンの園にあった「命の木」

アダムの堕落によって神との交わりが断絶された人類がついに神との全人格的交わりに回復されたということを指しています。

③「命の木」とは私たちを現している

a.私たちが豊かな実を結ぶためには私たち自身が命の水の川の岸辺に住んでいる必要があります。

b.葉っぱは人を癒しますが、それに優って大切なのは実です。
実とは御霊の実であり、人格的成熟という実質を指しています。
葉っぱだけ繁って実がならなかった木をイエスは呪われました。

3.預言の言葉を付け加えても取り除いてもならない

①聖書の教えを少しでも取り除いてはならない

黙示録に書かれてあることはある意味では奇想天外な内容です。
しかしこれを現代人にも納得がいくようにという配慮の元に改変することは決して許されることではありません。

これはリベラル派キリスト教がやっていることそのものです。
聖書は聖書によって解釈するという原則を守らなければなりません。
そうでなければ教会や信仰者個人に霊的な神の命の水の川が流れてくることはありません。
ひからびて骸骨(がいこつ)のようになってしまいます。

②聖書の教えに付け加えてはならない

付け加えるとは具体的には何を意味するのでしょうか?

a.本来は個人の自覚的決断によってなされるべき信仰の応答が脅迫や教え込みや洗脳によって行われてしまうことです。

b.本来は恵みへの感謝の応答であった献金・奉仕・伝道・礼拝が信仰のバロメーターとして評価の対象になってしまうことです。

③現実の問題に聖書を適用する

では取り除くことをせず、付け加えることもしなければそれで良いのでしょうか?
いいえ、そうではありません。
聖書の教えを金科玉条のごとく崇め奉るのではなく、福音を現実の困難な問題に適用し、答えを提示することが必要です。
そのとき初めて神の栄光が現れるようになります。

刻一刻、私たちの時代は終末に近づきつつあります。
しかし私たちは「今日一日を生きる」というスピリットをもって信仰生涯を全うさせていただきたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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