初めの愛に立ち帰る

今日は皆さんとご一緒に、黙示録に出てくる七つの教会を見てみたいと思います。

①その前に、エルサレム教会はどうなったのかを見てみましょう。

イエスご自身から直接薫陶(くんとう)と指導を受けたエルサレム教会の人たち。
世界で初めての聖霊のバプテスマを受けた教会。
エルサレム教会は、ある時までは御霊なる神の導きに忠実に従っていた教会でした。

アジアにある7つの教会のリストの中にはエルサレム教会が入っていません。
ヨハネの黙示録が書かれたのが紀元100年頃と言われており、エルサレムが陥落したのが紀元70年です。
この僅か三十年の間に何があったと言うのでしょうか?
推測できることは、エルサレム教会がリストの中に入っていないと言うことは、キリスト教会であるための最低条件さえ満たさない集団へと変質してしまったのではないかと言うことです。

②パウロが各教会に送った書簡の中で唯一叱責が含まれていないエペソ教会でしたが、紀元百年頃には愛を失っていたようです。

要するに教理面・実践面では成熟をなし遂げたのですが、一番大切な愛を失ってしまったのです。
そのような教会に対して、神様は悔い改めて初めの愛に立ち帰れと言われます。
もし悔い改めて立ち帰らないなら、神はその教会や個人が世の光としての働きが出来ないようにしてしまわれます。

悔い改めて立ち帰るには、考えることが必要です。
「あぁ、申し訳なかった」と感情的に思うだけでは悔い改めて立ち帰ることは出来ません。
車のドライバーが道を間違えたとき、どうするでしょうか?
「間違えは間違えとして、これから気を付ければ良い」などと馬鹿げたことを言うでしょうか?
そうではありません。
間違えたところまで引き返して、そこから再スタートするのです。
クリスチャンや教会もこれと同じです。
対応を誤ったことについて、明確に悔い改めを表明しなければなりません。
そうしない限り、御霊の神のリバイバルはありません。

③スミルナ教会は極度の貧しさがあり、投獄と迫害が迫っているなか、自称クリスチャンたちから中傷されていました。

この「クリスチャンと自称しつつ、かえって神とその民に敵対している」者たちが、誰を指しているかは分かりません
また軽薄にこれを現代の教会事情に当てはめてもなりません。
ただ聖書の時代を盲目的に絶対に完璧な教会時代だったと考えることが、どれだけ事実と乖離しているかを理解することは出来ます。

④ペルガモ教会は、ニコライ派と呼ばれる人たちのグループを温存していたことを非難されています。

ニコライ派の人たちは「この世と調子を合わせて」「偶像礼拝と不道徳」を行っていました。
どんな事情があったか分かりませんが、これらの人たちに対して悔い改めを迫ることをせず、そのままにしていたようです。

⑤テアテラ教会は実践の面での確実な成長があったことを誉められていますが、イゼベルという女預言者を自由放任にしていたことを責められています。

クリスチャンが経済的に祝福されたり、宣教が著しく進展したりするとき、背後から忍び寄ってくるのが不品行です。
ところで皆さんは不品行と姦淫の違いをご存じですか?
知っていても何の役にも立ちませんが(笑)、不品行とはおもに所帯を持っている人々が犯す性的罪を指し、姦淫とは不品行を含めた性的罪全体を指して使う言葉のようです。

この女預言者のイザベルにたぶらかされて、ペルガモ教会のある人々は不品行とともに、他の宗教に霊的に交わるという罪を犯したようです。
現代でもカトリック教会は「他宗教にも救いはある」と教えているようですが、このことからも警戒しなればならないと思います。

⑥サルデス教会

目茶苦茶な言い方をされているサルデス教会です。
神様の目から見て、この世の汚れに染まっているということ自体が許容できないことなのだと思います。
日本に住む私たちクリスチャンは自戒をしたいものです。

⑦フィラデルフィヤ教会

「小さい存在だけど、あなたは本物だ」と言われている教会です。
私たちはまずこのように神様から言われることを目指したいと思います。

⑧ラオデキヤ教会

ラオデキヤと言うと「それは生ぬるい日本の教会の代名詞である」と説教で良く聞かされたものでした。
しかし今になって思うと、それは違うと言うか、日本の教会にはもっとふさわしい教会の名前が別にあると思うようになりました。

◎さて、皆さんは日本の教会は、どの教会に一番近いと思われますか?
「私はこれだと思う」というのを是非コメント欄に書き込んでください。
お待ちしています。

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