聖い生き方とは依存からの解放・自己一致・互いに愛し合うことによる

聖書には『キリストが再び来られる時、私たちはキリストのようになることを知っている。この希望を持っている者はだれでもキリストが聖くあられるように自分自身を聖くしようとする』[Ⅰヨハネ3:2]とあります。

聖い生き方とはどんな生き方かを聖書から考えます。

1.聖い生き方とは依存的な生き方からの解放

①聖書が教える罪は法律的罪とはちがう

聖書が罪と言うときは法律的なものを指すのではなく、神の御心に反する行いを指します。
信者が未信者に向かって「それは罪です」などと言うと、未信者の方は刑法に違反する犯罪行為でもしたのかと誤解してしまいます。
クリスチャンは日本語の罪という言葉の概念が、まだ聖書の概念になっていないことに注意すべきでしょう。

②聖書が教える罪は囚われた生き方を指す

聖書はこのことを別の言葉で「偶像礼拝」という言葉で呼んでいます。
囚われているなら何であっても罪です。

アルコール依存症であっても薬物中毒であっても買い物依存症であってもセックス中毒であっても暴力依存症であっても名前が異なるだけで中身はみな同じです。

③聖い生き方の前提にあるのは自分の無力を認めていること

私たちが自分の無力を認め、神様ならこんな自分を助けることが出来ると信じるなら、神様は必ず依存症的生き方から解放してくださいます。

あるブログに書かれてあったのですが、12ステップの棚卸(たなおろし)をやろうとした人に「ところであなたはステップ1の自分の無力を認めるとはどういうことだと思いますか?」と尋ねると、その方はしどろもどろになられました。
それでそのブログの管理人は「ではステップの1が理解できていないようですから次のステップに進んでも意味のないことですね」と仰ったそうです。

クリスチャンである私たちはどうでしょうか?
笑ってる場合ではないという気もします。

2.聖い生き方とは自己一致した生き方

①偶像を愛していると自分自身が空虚になる

それが何であれ偶像を愛していると自分自身の心が空虚になります。
なぜ自分自身の心が空虚になるかと言うと、それは『自分自身』が大切にされていない愛されていないと感じるからです。

偶像を愛している人がどんなに自分の自由だと言い張ってみても自分自身は案外正直なのです。
自分自身を愛することと、偶像を愛することは決して両立できません。

②自己一致とは建前と本音が一致していること

自分自身を愛し、隣人を愛しているなら本音で語らず建前で語るということは出来ません。
偶像に心が囚われて自分自身にも隣人に対しても心が虚(うつ)ろになっているときは、その場凌(しの)ぎの心にもない言葉が出てきます。

ですから自己一致とは、してもしなくても良いという話ではありません。
自分自身と隣人を愛しているなら必ず自己一致しているものなのです。

③自己一致とは自分と他人を比較しない生き方

なぜ比較するかと言えば結局のところ自分自身がありのままでいいと思っていないからにほかなりません。
ありのままで良いと思っている人がどうして他の人と自分を比較するでしょうか?
確かに比較への誘惑はあります。
しかし神の恵みをいただいて誘惑に勝つことが出来ます。

他人と自分を比較するところから嫉妬が出て来ます。
その嫉妬がいつかは自分自身をコントロール不可能な怒りの虜(とりこ)にするかもしれません。
警戒したいものです。

3.聖い生き方とは互いに愛し合う生き方

①自分自身を愛している分しか人を愛せない

互いに愛し合う生き方とは自分自身をありのままに受け入れるように、隣人をありのままに受け入れる生き方です。
自分自身を受け入れている分しか他者を受け入れることは出来ません。
ですから他者を受容しようと悪戦苦闘しないことです。
そんな暇があったら自分自身を受容することに時間をかけることです。
順番を間違ってはいけません。

『自分自身を愛するように、あなたの隣人を愛しなさい』(聖書)

②互いに愛し合う生き方は隣人の心の中の赤ん坊に対して微笑む

だれの心の中にも赤ん坊がいます。
自分自身を大切にするとは自分の中にいる赤ちゃんを大切に守ってあげることを意味しています。
顔を見ると憎らしい顔をしているあの人も心の中には赤ん坊がいるのです。
その赤ん坊に向かって微笑み掛けることです。

現実の問題から目をそらさず真剣に生きていくとき、私たちは脱線せずに信仰生涯を全うすることができます。

◎平安と祝福を祈っています。

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