罪の問題と自己受容の関係

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カウンセリングが日本に入って来たとき、学校現場には混乱が起こったと言います。
それまでは殴ったり怒鳴ったりして生徒を指導してきたのに、「生徒を受容しなさい」と言われるですから、ある意味では混乱が起きても仕方なかったかもしれません。

教会でも、違った意味で戸惑(とまど)いがありました。
それまでは「悔い改めなさい」とか「どうしようもない罪人」と言ってきたのが、ある日突然「ありのままで良い」とか「受容することが信徒相談の入り口である」と教えられて、戸惑わないはずはありません。
カウンセリングは教理的偏重に陥っていたキリスト教信仰を聖書的キリスト教へと回復させる役割を持っているものです。
しかし初期の段階では、カウンセリングの理念とキリスト教の教理のすり合わせが十分でなかったため、不幸な脱線もありました。
そこで今日はもう一度、罪の問題とカウンセリングで言うところの自己受容とは、どのような関係にあるのかを整理して考えてみたいと思います。

①人間を存在と行為に分けて考える考え方

「わたしの目にあなたは高価で尊い」と言われるとき、それは人間の存在に対して言われていることです。
それに対して「人はあくまで罪深く、その罪は治らない」と言われるとき、それは人間の犯す行為に対して言われていることです。

②受容というとき、それは味噌も糞も一緒くたにしているのか?

そうではありません。
たとえば万引きをした少年を受容しようとするとき、本当はその少年の存在と行為を分けて考えなくてはならないのですが、その少年は自分の存在と行為を分けて考えることが出来るほど大人になっていないのです。
それでその少年に受容されたとはっきりと自覚してもらうために、一時的にその行為を受け入れることがあります。
もちろんこれは限定的であり、時期を区切ってのことです。

存在を受容することが第一のことであり、そのために行為を受け入れることもあり得ますが、これは行為を肯定しているのとは違います。

③ありのままで良いのなら、なぜ悔い改める必要があるのか?

この部分が一番分かりにくいところではないかと思います。
ありのままの自分自身と隣人を受け入れつつ生きていくことが、神の命令です。
その神の命令に反して、自分自身にも人にも「こうなれ。ああなれ」と言い続けてきたことを悔い改めるのです。
悔い改めとは、明確な方向転換でなければならず、感情的なものではありません。
方向転換とは何かというと、それは「生き方の転換」にほかなりません。
生き方の転換とは、「こうなったら、あれが出来たら合格」という生き方から「何が出来ても出来なくても、そのままで大丈夫」という生き方への転換です。

④「そのまんま」と「ありのまま」は違うこと?

一言で言ってしまうと違うことです。
朝起きて、パジャマのまま着替えもせず、顔も洗わず、髪もクシャクシャのままなのが、そのまんまです。
朝起きて、今日も命が与えられて生かされていることを感謝しつつ、多くの出会いに期待しつつ、服を着替え、顔を洗い、髪をとくのが、ありのまま人生です。

要するに、そのまんま人生とは神との関係、人との関係を考慮に入れない独りよがりな生き方です。
ありのまま人生は、自分のありのままを尊重するように、他者のありのままをも尊重しようとする生き方です。

⑤ありのまま人生を生きることが出来るなら、信仰は必要ない?

これも良く聴かれる質問です。
真剣にありのままを生きようとするなら、誰にでも明白に理解できることですが、イエスが私をありのままに受け入れ愛してくださったという事実がなければ、私が私自身を受け入れることは不可能です。
ここがキリスト教カウンセリングとセキュラー(世俗的)なカウンセリングの最も異なる点です。

◎キリスト教カウンセリングはキリスト信仰に抵触しません。
そればかりか、却ってキリスト信仰を聖書の精神に忠実ならしめるものです。
祝福を祈っています。

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コメント

  1. ぎょう より:

    ありのパパさんこんにちわ
    罪と自己受容についての見解ありがとうございます
    ③④⑤については真宗においても近い了解がありますので
    理解しやすいところでしたが

    ①と②がやはり真宗の見解と違うところのようです。
    存在と行為ということで応えて頂いたと思いますが
    行為において罪が発生するのであって、
    存在は神の創ったのものであり、
    先行的恩寵を備えているので、無条件に受容できる
    ということでいいのでしょうか?

  2. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんばんは。
    コメントありがとうございます。

    ○罪はどこから発生するかと言えば、それは存在からです。
    しかし存在そのものを悪とすると、それではなぜ神は悪そのものの人間に対してありのままを愛してくださるのかということが分からなくなります。
    それで方便として存在と行為を分けて考えるということをするわけです。

    ○先行的恩寵とは、自分の力では神を信じるところまで行くことができない人間に、神が憐れみのゆえにお与えくださった恵みです。
    ですから元々人間に備わっているものではありません。
    なぜ無条件で受容できるかと言えば、それは神の御子が十字架に掛かるほどに私たち一人一人を愛してくださったので、それならば神の恩寵を頂いた私たちが他者をありのままに受容することは当然であるという理解になるわけです。

    ○①と②については真宗の見解と違うと言うことですが、今度是非真宗ではどのように理解しておられるかお聞かせください。
    どうぞ、「目の前に何も知らない少年がいたら、私は何と教えるだろうか」と自問自答しつつ、お話くださいませ。
    よろしくお願いいたします。

    またコメントしてください。お待ちしています。

  3. ぎょう より:

    ありのパパさんお返事ありがとうございます。
    行為が存在に基づくということは真宗でも一致しますが、
    どうやら、私たちの存在が本質的にどのようなものか、
    ということに見解の違いがあるようです。

    真宗では人間の「我」は根本的に罪(真実を見失うこと、迷い)をつくる存在ととらえています。我は我執(私という存在が変質せずに、ずっと在り続けるという迷い)、我所執(それは私のものであるから、私の思い通りになるという迷い)ということを生じさせます。ありのままというのは「無我」であり、「私」がある限り迷い続けるというのが真宗の立場と頂いています。
    ただ、阿弥陀仏のはたらきは、迷いの中から、迷いを超えようとする願いと力が生まれてくるところにあります。誰もが迷いを持つように、迷いを超えていこうとする願いと力に出会えるということです。そこに迷いがありながら、迷いを生きていかせる力があると頂いています。

    少し限定的な例ですが

    誰もが人間としての悲しみを持っているんです。
    仲間作りをしたら、必ず仲間はずれができるでしょう。
    その子を無理やり仲間の輪に入れても
    その子もみんなも微妙な気分でしょう。
    それは誰もが持っている人間の力の限界なんです
    私たちが仲間を作るときは気の合う人で集まります。
    気が合う人とは一緒にいたいと思いますが
    そうでなければ離れていたいと思うのが私たちです。

    でも、その「真に共にあれない」という人間の悲しみは
    だれもが共通に持っているものです。
    そして、それは「真に共にありたい」という願いが
    だれにでも先にあって悲しみがあるんです。
    その誰にでもある「真に共にありたい」という願いが
    阿弥陀さんのはたらきなんですよ。

    あなたは今、人間の悲しみに気付かされました。
    これは非常に喜ばしいことなんですよ。
    そして、そこにその悲しみを超えていきたい
    という仏さんの願いに会いました。

    真宗とはその人間の悲しさと
    それを超えようとする仏さんのはたらき
    を受けて生きていくことなんです。

    自分が言えるのはここぐらいまででしょうか。
    真実教という側面では話せますが
    救済教という側面では最後は個々人が
    その願いと悲しみにどう向き合うかで違いますから
    なんともいえないです。
    それこそ、その少年との対話の中でしか見えてこないと思います。

  4. ぎょう より:

    すいません、自分で書いててなんですが、
    少し違う気がするので訂正させてください。
    「人間の悲しさを超える」というより
    その悲しみにおいて既に「共に在る」ことに目覚めていく
    ということですね。

  5. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんばんは。
    コメントありがとうございます。

    少年に分かりやすくお話くださり、感謝します。
    じつはこの少年とは、歳をとった爺さんであるこの私なのです(爆)。

    キリスト教の人間理解は現代カウンセリングにおけるものと同一性があります。
    それはカウンセリングの出自にキリスト教が深くかかわっているということが大きいです。
    森田療法の出自が仏教と深くかかわっているのと同様であると思います。
    この視点から考えますと、私とぎょうさんの距離はずいぶん離れているということも言えるかもしれません。
    しかし実践の中で(人をどうやって癒しに導いていくのか)、理屈もへったくれもありません(笑)。
    理屈・理論は変わっていくべきものです。

    ということで(笑)、またコメントしてください。お待ちしています。

  6. ぎょう より:

    ありのパパさん、お返事ありがとうございます。

    なかなか、わかりやすく表現するというのは難しいものですね。
    少年への表現といいながら難しくなってしまった力不足を
    恥ずかしく思います。
    大学の先生に中学生にもわかるような論文を書け
    と言われたことをなつかしく思います。

    (私とぎょうさんの距離はずいぶん離れているということも言えるかもしれません。)

    とのことでしたが、それもそのはずだと思います。
    お互いに道を求めてきた背景
    (私たち自身の経験や先輩方の歩み)が異なりますから、
    その背景を一足飛びして共感できるところに結びつくことは
    難しいのではないでしょうか。
    対話はその相手の背景を感ずる手段だと思っています。

    特に自分は近代の先輩方に強く影響されています。
    表現がこんなに複雑化、理論化したのも
    近代化とともに、
    まずこれまでの自分の経験をもとに疑ってみるという
    科学的思考にどう向き合っていくか、
    という先輩方の近代社会への応答からこうなったのだと思います。

    しかし、(私を含めて)現代人は自らそのような考え方を志向しながら
    そういう考え方に疲れているような気がします。
    その疲れが神秘主義を求める、
    スピリチュアルブームなどになっているような気がします。
    神秘主義はそこにある事実より、
    奇跡を求める傾向があるような気がして、
    私としては人を惑わせるように思えてなりませんが・・。

    ただ、その背景には時代社会が経験主体の理性的思考への疲れから
    癒しを求めていることは確かのような気がします。
    それはありのパパさんがいう受容という癒しだと思います。

    ただ、受容の主体が礼拝対象でなく、
    力に限りのある人に終始しそうで
    自分の中では消化できないものがあるんです。
    それこそもう自分の領分でないので、
    礼拝対象に受容されるべきなんでしょうが
    どこまでも自力を離せない自分だと思います。

    まあ、そういう課題があって受容という言葉に反応して
    質問したわけです。

  7. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    (ただ、受容の主体が礼拝対象でなく、
    力に限りのある人に終始しそうで
    自分の中では消化できないものがあるんです。
    それこそもう自分の領分でないので、
    礼拝対象に受容されるべきなんでしょうが
    どこまでも自力を離せない自分だと思います。)

    ○ここのところをもう少し詳しく具体的に書いていただければ幸です。

    ○話は全然違うのですが、浄土真宗で、「全き信仰の人」を呼び示す言葉がありますよね。
    その人たちを特集した番組を聴いたことがあったのですが、とても教えられることが多かったです。
    たとえば仏さんの前で寝ころがったところを、別の信者さんに見咎められたとき、「親様の元に帰った子供は皆このようにリラックスするのじゃないかなぁ」と答えたこと。
    自分の中に、父なる神に対して他人行儀な感情があるのを、この番組によって気づかされました。

    またコメントしてください。お待ちしています。

  8. ぎょう より:

    本来は「摂め取って捨てず」という如来に「私」が受容され、「他者」も摂めとられた「私」を通じて、「他者」も受容されていく、というのが救われていく関係なのですが、
    「私」が「私」を受容し、「私」が「他者」を受容する。そういう傲慢な姿勢になることを危ぶんで、なんとなく足踏みするわけです。

    私たちの受容は条件付きの受容で救いきれない。
    如来の受容は無条件の受容。
    『歎異抄』には小慈悲は救いがたく、大悲にすがれと書かれています。
    小慈悲が如来の呼び掛けによって大悲に目覚めるということが
    うなずけていない、ということで「自力を離せない自分」
    と言っているわけです。

    「全き信仰の人」の人とは「妙好人」のことですね。
    因幡の源左さんですね。他力を「お任せ」と頂いていった人です。
    「如来さんにお任せしたらいい」という言葉には
    如来さんの願いを聞き続けた人ということがあると思います。

  9. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんばんは。
    コメントありがとうございます。

    う~ん。説明してもらえば貰うほど、分かりにくくなるような………(笑)。
    まぁ、私も人の事、言えた義理じゃありませんが(爆)。

    一つの説明をすると、その説明に質問が出てきて、その質問に答えると、その答えに対してまた質問が出て、という感じで気が付くと初めの問題や質問はどこかに行ってしまっているということがあります。
    ぎょうさんと私のやりとりは、まさにこれの典型だと思います(笑)。
    クリスチャン同士でこれをやると、段々と険悪になることが多いのですが、ここまでちがうと何故か笑えてきます。
    親子は関係が近すぎて喧嘩になるが、じいちゃんと孫の関係では余りに違いすぎて喧嘩にもならないというのと似ているかもしれませんね。

    ◎キリスト教においては、神が人間を受容してくださったこと(これを救いと呼びます)が、すべての前提にあります。
    ですから人間が受容しようがしまいが、それは救いには全然関係がありません。
    しかし神が受容してくださったのだから、では私も自分自身をありのままに受け入れ、隣人を受け入れようとする心が自発的に起きてくるわけです。
    また私たちが隣人を受け入れるといっても、それは限りのあるものです。
    ただ神の愛を御裾分けをしているのに過ぎません。
    そのことによって神の愛を体験するための橋渡し役が出来れば良いと考えているのです。

    きょうはこんなところで(笑)。
    またコメントしてください。お待ちしています。