伝道の肝(きも)は何か?

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世の中は、受け入れてほしい人ばかり、話を聴いてほしい人ばかりです。
もし私たちが、本当に人さまを受け入れることが出来たら、私たちは強力な個人伝道者になることができます。
これは伝道ばかりではなく、人間関係においても同じことが言えます。

1.人を受け入れるということは、人の話を聴くということに象徴的に現されます。

人々をありのままで受け入れていないのに、聴く振りを一生懸命しても、それは人々の心を打ちません。
打たないどころか、却って人々に見抜かれ、「偽善的である」という評判を頂戴してしまいます。
カウンセラー同士で傾聴の訓練をすることがありますが、その時「話を聴いてもらっているのだが、どうも聴いてもらっている気がしない」と感じる人がおります。
そのようなとき、その方と世間話をすると、その方はどうも人に対して注文が多い人であることに気づく場合が多いです。
注文が多いということは、人々に対して「こうなれ。ああなれ。」と命じているということですから、ありのままとは大分遠いところにいるわけです。
そのような状態でどんなに一生懸命、傾聴しようとしても人の心を打つことはありません。

2.ではどうしたら他者受容できるようになるのでしょうか?

①他者受容は自己受容に正比例する。

他者受容とは人々をありのままに受け入れることです。
しかし自己受容を棚に上げたままで、他者受容しようとしても空回りするだけです。

お子さんに問題がある親御さんが、カウンセラーに「お子さんをありのままに受容してください」と言われて、一生懸命他者受容に励みますが、なかなかうまくいきません。
それは親御さんがご自分の自己受容をしないままで、お子さんを受容しようとするからです。
自分自身を二元論でがんじがらめにしていると自分自身は悲鳴を上げます。
それにもかかわらず、その悲鳴を上げている自分自身をそのままにして、お子さんを受容しようとすると、親御さんの自分自身が怒り出します。
「子供より先に受容すべき存在がいるのではないか」という訳です。

②人々に対して怒りが引き出される点が自己受容できていない点です。

たとえば時間にルーズな人に対して怒りを感じる人は、時間にルーズな自分を赦していない人です。
これは誰あろう、ありのパパ自身のことを言っているのです(笑)。
そのことに気づいて、時間にルーズな自分を赦したとき、人々が時間にルーズでも怒りが引き出されなくなりました。
そして怒りのために思考停止に陥っていたのが、冷静に問題解決のために知恵を絞ることが出来るようになりました。

3.肝は「うまく話せる」ことではなく、「人をありのままで受け入れる」ことです。

①これが出来れば、後のものは何とかなります(笑)。

皆さんは他の宗教とキリスト教の最大の違いは、どこにあると思われますでしょうか?
ありのパパが考える最大の違いは、他の宗教は説得と教化によって未信者に働き掛けます。
これに対してキリスト教は、未信者をありのままに受け入れることによって、神の愛を体験していただくことにより、伝道が行われます。
現代キリスト教は、そのような伝道を行っているでしょうか?
私たちはもう一度、本来のキリスト教を取り戻さなければならないと考えます。

②フランシスコ会の伝道

中世の時代、フランシスコ会の修道士たちはイスラム圏で伝道を行いました。
これに対してイスラム教の側は精一杯対抗しましたが、無力であったようです。
イスラム教の人々はこう言いました。
「彼ら(フランシスコ会の人々)は地域の住民に、医療・教育・産業の育成など良きことをなします。彼らに『どうして私たちにこんなことをしてくれるのか?』と尋ねても、彼らはにこっと微笑むだけで無言です。しばらく経つと地域の住民はみんなフランシスコ会の礼拝に出席するようになりました。彼らは一言も礼拝に出席するようにとは言わなかったにもかかわらずです。」

言葉数ばかりが多くて、愛の実践が伴わないのは、どこのドイツでしょうか(笑)。
愛の実践は、他者をありのままに受け入れることを基盤として初めて可能になるものです。
他者をありのままに受け入れることをしない愛の実践などは、善行の押し付けとしか受け取られないものです。

◎もし私たちが本当に人々を受け入れることが出来るなら、私たちは最強の個人伝道者となることが出来るばかりでなく、人間関係の達人になることが出来ます。
祝福を祈っています。

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コメント

  1. ぎょう より:

    真宗大谷派の僧侶のものです。
    ありのパパさんが述べる律法主義に対する見解に興味を覚えました。
    私たちの宗派においては機の深信という言葉において
    自らの力を頼む、それでは迷いを深める姿だとし
    自力無効の教えを頂いています。
    そこのわが身に対する姿勢に共通のものを感じました。
    まあ、それは直接関係ないのですが

    今回の記事の自己受容というところで疑問に思ったのですが
    ありのパパさんたちは自己と罪を分離して考えるのでしょうか?
    自己受容が生じるとき、その人の罪というのは受容されるのでしょうか?
    そこにはどのような変化が生じているのでしょうか?
    (私にとっての罪とは、ありままの在り方を無視し
    自らの思いに基づいて世界を見ようとして苦悩を増やす原因になるものです。ありのパパさんの「罪」とは違うかもしれませんが)

  2. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんばんは。
    初めてのコメントありがとうございます。

    親鸞の「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」という言葉に深い宗教性を感じます。
    人はここまで、救いについて真摯になることが出来るのかと感服する思いです。

    さて、自己受容と罪の問題についてご質問をいただきました。
    この問題については余り考えたことがありませんでした(爆)。
    言われて初めて、「そう言われればそうだ」と思った次第です(笑)。

    そのようなわけで、ご納得いただける回答はすぐには無理だと思います。
    それで近いうちに(出来ましたら一週間以内に)「罪の問題と自己受容の関係」というテーマで文章をアップしたいと思います。

    自己と罪を分離させて考えることについて、ぎょうさんはどのように考えておられるのかを更にコメントしていただければ幸です。
    それに対して「聖書はこのように記しているから、私はこう考える」とお答えしたいと思います。

    これからもよろしくお願いいたします。

  3. ぎょう より:

    突然のコメントに応じて頂きありがとうございます。

    自分の考えを述べる前に神経質かもしれませんが
    了解していただきたいことがあります。

    それは真宗では念仏を根幹とした聞思、求道を中心にしますので
    各人の抱えている問題を中心に教えを聞く傾向があります。
    真(本当に)宗(大事なこと)を求めてバラバラに集まっているわけです。
    だから私の頂いている教えが
    すべての真宗門徒に当るわけではありません。
    どこもそうだと思いますが、そこを了解して頂ければと思います。

    さて、それで私の頂いている教えでは

    前のコメントで説明したように、
    私たちは罪を苦悩を深める行為について言います。
    苦悩を深める行為とはあるがままの真実と自分の価値観を通した現実のギャップを深める行為です。
    つまり、「私」と「罪」というのは切り離せないものであると頂いています。
    罪の自覚、そのものが真実を知らされる行為であり、
    それ自体が救済だというのが教えなのです。

    ありのパパさんが頂いている教えではどうでしょうか?
    宗(大事なこと)とすることを否定されれば
    その人はそれを柱に生きているのですから生きていけなくなります。
    よい対話ができることを願っています。

  4. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    キリスト教における罪とは、神の戒めを破ることです。
    神の戒めとは、第一に私たちの父である神を愛することであり、第二に、自分自身を愛するように、隣人を愛することです。

    この神の戒めを破ることを罪と言いますから、自己受容すればするほど、罪から遠く離れた生き方をすることが出来るようになると考えるわけです。

    なぜなら自己受容とは、ありのままの自分自身を受け入れ、愛することです。
    自己受容が進めば進むほど、他者を愛することが出来るようになります。
    それは自分と自分自身という関係がうまくいっている人は、自分と他者という関係もうまくいくからです。

    なぜかというと、人は自分自身に対するのと同じ対応を、他者にもするからです。

    というところで、よろしいでしょうか?(笑)

    またコメントしてください。お待ちしています。

  5. ぎょう より:

    お返事ありがとうございます
    実は飲みながらネットサーフィンしていたので
    その勢いで書き込んでしまったのですが
    なんだかすごい警戒線を引いたまま質問してしまいすみません。
    (苦笑)
    せっかくの御縁ですし、歓迎して頂けているようなのでこの対話を続けていきたいと思います。

    それで本題ですが
    自己受容から他者受容へという展開はよくわかります。
    「自信教人信」自ら信じ人に教えて信ぜしむ、という言葉があります。
    自らの道を求める姿勢が人に道の存在を伝える、と頂いていますが、
    内面的変化と人間社会で生きることがつながらない宗教は
    どうしても個人の中に埋没する傾向がありますし、
    傲慢になると思います。
    そのつながりの意味や恩恵、功徳は私たちの宗派内の了解ですら
    かなりのばらつきがありますから、大変興味がありますが・・・。
    今回は神の戒めと罰の関係についてお聞きしたいと思いました。

    以下の文章はなるべくありのパパさんの生き方を尊重しよう
    と思っていますが、私の興味関心で傷つけることがあればお許しください。

    神を愛することを「戒める」というのは、
    「戒める」に先立ってわれわれに疑いの「罪」があるということと受け取っていいのでしょうか?それとも疑いは神の愛に背く「罪」になりませんか?

  6. ぎょう より:

    続けてコメント失礼します
    すいません、私が神について語り質問するのはおかしいですね。

    つまり、神の「戒め」とは何を意図しているのか?
    自己受容と他者受容によってありのままを生きること
    でいいのでしょうか?

    それと
    「戒め」る原因は何なのでしょうか?
    それが「罪」なら、「罪」は人間そのものに本質的に存在するとしているのでしょうか?
    それとも、何かの影響によって生じるもので、人類すべてに適用されるものではないのでしょうか。

    ということについて聞きたいのです。

  7. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんばんは。
    コメントありがとうございます。

    初めに冗談を一つ。
    ぎょうさんの仰っておられることを聴いていると、戦国時代に日本に渡ってきた宣教師たちも同じような感じだったのかと思いました。
    じつは、仰山の仰っておられることが余りに仏教的すぎて、私にはチンプンカンプンなのです(爆)。

    本音とも冗談とも付かないお話はここまでにして、ぎょうさんのご質問にできる限りお答えしてみたいと思います。

    ○「神の戒め」とはイエスが使われた言葉です。
    神の戒めを律法、即ち「守らないと怒られるぞ」という人間的理解(肉的理解とも言います)にすり替えてしまっていた当時の宗教指導者たちに対して、「わたしは神の新しい戒めをあなた方に与える」とイエスは言われました。
    その戒めとは、私たちが互いに愛し合うことです。
    元々の「戒め」の意味は、「これを守っていたら、神の愛の中にとどまることが出来る」というものでした。

    ○戒める理由は、神が最もはっきりと命じておられることは何かということを明示的にお示しになるためでした。

    お分かりいただいたでしょうか?(笑)
    またコメントしてください。お待ちしています。

  8. ぎょう より:

    頭でっかちな話に付き合って頂きうれしく思います

    よく門徒さんにも微妙な顔をされます
    表現をより正確にしようとする過程で
    不必要に複雑になるんですよ

    遠藤周作の『イエスの生涯』でも
    イエスが神の愛を唱えて
    ガラリヤ人は「我らは救い主にあえり」と言いますが
    ガラリヤ人の言う救い主とは自分たちの反ローマ運動の政治的指導者だったと表現をしています
    (遠藤周作はカトリックですね
    彼自身は真宗の教えを批判していましたが
    彼の見出したイエス像は
    真宗の「人間親鸞」という親鸞像に非常に似ている気がします。
    どちらがどちらに影響したかわかりませんが(笑)。
    ありのパパさんのイエス像と違うかもしれませんが
    非常に興味深いので、もし未読なら一読をお勧めします)

    遠藤周作のガラリヤ人のように
    私たちは最初に提示されたものから
    受け取る過程で歪めて信じたいものを作り出しますから
    どうしてもそれを危惧するとわかりやすさよりも
    正確性を重視して抽象的表現になるんです。
    まあ、僧侶の説明責任を果たせてない言い訳ですけどね。
    煙に巻こうというわけではないんです。
    表現力は勉強中です(笑)

    それで
    つまり「戒め」という単語の意味に執着するとおかしいのでしょうか
    「戒め」が指す意味は私たちがいう大悲大願と如来招喚の勅命みたいなものでしょうか
    真宗には
    仏は私たちが真実に暗いのを嘆き
    私たちが真実に気付くまで仏にならない
    菩薩となってあなたの歩みの力になろう
    と願いを立てた
    と表現されますが
    その「歩みの力」というのを
    それを如来招喚の勅命というかたちで表現したりします

    願いが力を持って私たちに影響を与えるとき
    勅命という表現で受け取った先輩方がいるということです

    こういうものに近いものでしょうか

  9. ぎょう より:

     危惧するとわかりやすさよりも
     正確性を重視して抽象的表現になるんです。
     まあ、僧侶の説明責任を果たせてない言い訳ですけどね

    まあ、これは仏さんの仕事を信頼してないから
    でてくるものかもしれませんが

  10. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    兄弟喧嘩ばかりする兄弟に向かって、親御さんが「兄弟同士、仲よくしなさい。これはお父さんからお前たちへの命令であるとともに、お願いでもある。」と言ったとします。
    そうするとこれは命令であると同時に哀願でもあるということになります。
    また「戒め」という言葉を使ってはいますが、相手の自発性に期待して用いられていることも明らかです。

    ということで、よろしいでしょうか?(笑)
    またコメントしてください。お待ちしています。

  11. ぎょう より:

    ありのパパさんこんにちわ
    丁寧にありがとうございます
    なんとなく、雰囲気としてはわかったような気がします。

  12. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    何となく雰囲気だけでも分かっていただければ、ありがたいです(笑)。

    またコメントしてください。お待ちしています。

  13. ぎょう より:

    ありのパパさんという具体的なキリスト教の方を知りましたので
    とりあえず、自分の真宗を説明するため
    他の宗教を引っ張ってきて比較して話す流れになってしまっても
    私の中でいい加減な比較ができなくなったと思います。
    それだけでも私にとっては収穫のあるやりとりだったと思います。

    とりあえず、一時的な熱が冷めましたのでこれで失礼します。
    また、思うところがあればコメントしたいと思います。

    丁寧にお応え頂きありがとうございました。

  14. arinopapa より:

    ぎょうさん、こんばんは。
    コメントありがとうございます。

    どうぞ、これからもコメントしてください。
    「それ、おかしいやろ!」ぐらいな勢いで、よろしくお願いいたします(笑)。