ありのまま生きよとの神の戒めを破ると神との人格的関係が破壊される

「アカンの罪」とは何のことでしょうか?「罪はアカンよ」ということではありません(笑)。
旧約聖書のヨシュア記17章にはモーセという偉大な指導者の後を引き継いだヨシュアがイスラエルを率いて破竹の快進撃をしていたとき、勝って当然と思われていたところで負けてしまいました。
それでビックリして神様に原因を伺ったところ、民の中に神の戒めに背いて敵の分捕り物を隠し持っている者がいることが分かりました。
その者の名前がアカンと言います。
今日は皆さんとご一緒に、この物語は私たちに何を教えているのかを考えます。

1.聖書の文脈を離れて聖書を引用する間違い

カルト教会もこの個所を良く用います。
説教の中で「牧師に不服従する罪を犯す者が一人でもいるとき、教会は祝福されません」と言います。

しかしこの個所を「全員が一つになる」と理解するなら、教会はマインドコントロール集団となってしまいます。
この聖書個所は決してそんなことを教えているわけではありません。

この個所の真意は[神の戒めを破るなら、神からの祝福を受けることができなくなってしまう]ということを教えているのです。
この理解も、理解の仕方によっては不健全な理解と実践を生みだしてしまう危険があります。
そのような誤りに陥らないために聖書全体は何と言っているのかということを大切にしなければなりません。
では神の戒めとは何を指しているのでしょうか?

2.神の戒めとは何か?

①律法を守ることによっては救われず、十字架でなされた神の御業を信じることによって救われる

神によって律法がイスラエルに与えられて、その結果イスラエルの人々が心底納得したことは律法を守ることによっては決して救いに到達し得ないということでした。

聖書には『多くのユダヤ人が信仰に入った』とありますが、これはそのような自覚を持ったユダヤ人が多くいたことを現しています。

②信じて救われたあとに救われるための律法を守る行いを止める

人間という者は不思議な者で、ある行動を目的が成就したにもかかわらず続けて行ってしまうことがあります。
たとえば電気製品を買おうとしてカタログを取り寄せ、そのカタログによって自分が買うべき電気製品を検討します。
検討の結果、電気製品を購入したあとでも、ふと気づくとカタログを見ている自分を発見することはないでしょうか?
ありのパパにはそんなことが珠(たま)にあります(笑)。

これが電気製品であるなら笑って済ますことが出来ますが、救いに関して同じ間違いをしでかすなら、それは人生において致命傷となります。
この間違いを初代教会のエルサレム教会のクリスチャン達は犯しました。
どういうことかと言いますと、救われたあとも律法を守ることを止めなかったのです。

救われたあとは当然のことながら救われるための努力である律法を守るという行いをやめることが神の戒めでした。
エルサれる教会のクリスチャンたちはこの神の戒めを破ったため救いからこぼれ落ち、教会自体も歴史の藻屑(もくず)と消えました。

③ありのままで救われたのだから、自分自身と隣人をありのままに受け入れる

律法を守ることによって救いに到達しようとする道はある意味では立派であるとも言えます。(もしそれが実現可能ならという前提が付きますが)
自己の義による救いを諦めて十字架の義にすがって救われる道はある意味ではみっともないことです。
これが万能感の強い現代人にキリスト教が受け入れられない理由の一つであると思います。

しかし信仰に入る全ての人がこの道を通ります。
この道を通らない者は偽物であり、神からの者ではありません。
自分がみっともなく身一つで救われたことを身に沁みて自覚している人は、他者に余計な重荷を与えません。
私たちは自分にも他者にも「ここまで出来たら合格。出来なかったら不合格」という定規を当てがちな者ではないでしょうか?

3.神の戒めを破ると神との人格的関係が壊れる

①神の戒めは自分自身と隣人をありのままに受け入れること

教会に所属するクリスチャンたちが人々をありのままに受け入れず条件をつけて受け入れようとするなら、それは神との人格的関係を破壊することにつながります。
まさしく「教会壊すに刃物はいらぬ。ただこうなれ、ああなれと言うだけで良い」のです。

②信仰が長くなると裁きやすくなる

教会生活が長くなると、どんな人を見てもありのままに受け入れることが出来るように
なり、誰の言葉づかいにも服装にも躓(つまず)かなくなります。
これはもちろん皮肉です(笑)。

若者が礼拝にスポーツウェアでやってきても「体が締まっていると、スポーツウェアも似合うね」と答えるし、ジーパンとTシャツでやってきても「シンプルが一番ね。すがすがしいわ~」と答える人々ばかりです。
間違っても心の中で「いくら若いからって、礼拝にふさわしい服装というものがあるだろうに」などとは決して思いません(笑)。

アカンの罪とは神との人格的関係を壊すことを指しています。
私たちは福音の原理に従って生きるありのまま人生を送りたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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