セクトとカルトの違い

セクトの文字通りの意味は「分派」ということです。
キリスト教は初めはユダヤ教の分派として出発しました。
聖書には「ユダヤ教ナザレ派の者たち」という記述があります。
宗教史的に見るならば、初めは分派として出発し、信徒数が増大したことによってキリスト教として認められるようになったということが出来ます。

カルトとは「カリスマ的指導者が絶大な影響力をもって指導している団体」ということになります。
ただし、この言葉の意味は時代の変遷に伴って微妙に変化しつつあるようです。
たとえばフランスの「反セクト法」の内容を見ると、これは実質的にカルトを指している法律であることが分かります。
以前、セクトとカルトの違いというテーマで文章をアップしようとしたことがありました。
しかし下調べをしてみると、現在の我が国ではセクトとカルトはほとんど同一のものとして使われていることが分かりましたので、アップするのを止めました。
しかしこのところの我が国のキリスト教会の動きを見ていますと、セクトとカルトという言葉の意味の違いを知っていないと正しく理解できないのではないかと考えるようになりました。
それでもう一度「セクトとカルトの違い」についての文章をアップすることにしました。

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1.セクトとは何か?

①セクトの定義とは?

アメリカの神学校を終えて帰って来られた方にセクトについてお伺いしたことがありました。
その時、その方は「アメリカでは、a.分派であること、b.閉鎖的であること、c攻撃性が強いことがセクトの条件とされているようです。しかし日本の人口に占める教会の割合から言うと、日本の教会はみなセクトと見なされると思います。」とお答えになり、お互いに大笑いしたことを覚えています。

その時代には(約三十年から四十年前)、カルトという言葉自体がなじみのないものでしたし、マインドコントロールということについても一般には理解されていませんでした。

現代におけるセクトの定義付けを考えると、
a.私たちだけが正しく祝福されている。
b.私たちだけが真理を持っており、目が開かれている。
c.私たちだけに輝かしい未来がある。
と考えているということが出来るのではないでしょうか。

②セクトの元々の出自は正統派・主流派の教会

それに対する先鋭的な批判の故に、追い出されるか、自分から分離したものです。
プロテスタント教会そのものが、出自はカトリック教会であり、そこから追放された者たちの集まりでした。
プロテスタント教会の人々は初め、唯一の公同の教会であるカソリックから分離させられ、自分たちのアイデンティティに悩みました。
即ち、自分が何者か分からないということです。
それでプロテスタント教会は自分が何者であるかを知るために、常に聖書に訪ね求めました。
宗教改革から約五百年たった今では、カトリック教会の人々は自分たちを「カトリックです」と呼び、プロテスタント教会の人々は自分たちのことを「プロテスタントです」とは呼ばず、「クリスチャンです」と呼ぶようになりました。

③セクトには強い閉鎖性や攻撃性があっても、マインドコントロール手法を用いない

セクトが主流派団体から分離して、段々と大きくなっていくのか、それとも小さいままで終わるのかは誰も分かりません。
日本の教会は長い間セクト的位置から抜け出すために考えられる限りの方策を行ってきました。
しかしそれらは実を結ぶことなく、未だに我が国の教会は人口比から言えばセクトと呼ばれても仕方ないところにいます。

2.カルトとは何か?

①構成メンバーに対してマインドコントロールを用いる

セクト的団体がカルト的団体へと変質した明確な印は、構成員に対してマインドコントロールを使うということです。

異端と呼ばれるものに「エホバの証人」というのがありますが、これも初めは異端的教理を信じているに過ぎない団体でした。
しかし統治体と呼ばれる指導部の入れ替えがあったときから、マインドコントロールを用いるようになりました。
最もそれが良く現れたのが、聖書研究についてでした。
それまでは異端的教理を奉じていながらも、比較的自由に聖書についての研究が許されていました。

しかし統治体のメンバーが変わってからは、聖書そのものを読むことが禁じられ、統治体の出版物を通してしか聖書を研究することが許されなくなりました。
同時に外部のものに対しても、芝居がかった彼らのいわゆる伝道マニュアル通りの対応をするだけであり、クリスチャンから質問を投げかけられても真っ当に答えるということはなくなりました。

②セクトが強い攻撃性を外部に向けるのに対して、カルトは内部にも向ける

セクトは「あいつらは間違っている。私たちは正しい」と力むだけですが、カルトは攻撃性を会員にも向けます。
即ち「私たちから離れると呪われる」「指導者の指導に従わないと天罰がくだる」などです。
このような面から見ると、セクトの行き着く先がカルトであるということも出来ると思います。

③セクトに見られる閉鎖性がカルトにおいては強く隠蔽(いんぺい)されている

セクトは目に見える閉鎖性を持っていますが、それに対してカルトは外部からは風通しが良く見えます。
集会の様子をインターネットで流したり、説教要旨をPDFで配布していたりします。

しかしそれは閉鎖性を巧みに隠蔽しているのに過ぎません。
外からは民主的運営がされているように見えても、いったん中に入るとおどろおどろしい封建的運営がなされいるのを知ることになります。
たとえば教会総会や役員会によらず、一般会員が知らない間に重要事項が決定されたり、副牧師の解任やメンバーの除名についてまともな説明がなされません。
教会会計についても同様です。

3.セクト的団体がカルト教会に変質しないために

セクトと呼ばれる団体がカルト化しないためには何に注意することが必要なのでしょうか?

①「私たちは正しく、あの人たちは間違っている」という二元論的主張を放棄する

彼らの根本的誤りは、努力した人は救われ、努力しなかった人は救われないという二元論を廃止するのが福音であるのに、結局気が付いて見ると「自分たちは目が開かれた存在であり、ニポンキリスト教は滅びていく運命である」という典型的な二元論に陥っていることです。
この典型的な二元論に陥っていることに気づかない限り、彼らがカルト化するのは必然だと思います。

②自分たちの未熟さを正直に認めるところからスタートする

彼らの批判は大部分が正しいものであることを認めます。
しかし彼らは批判しているその同じ罪や欠点が自分の中にもあることを気づいていないのです。
それで自分は正しく、被害者であり、ニホンキリスト教は間違っており、加害者であると思い込んでいます。

完全に正しい教会など、この地上にはどこにも存在しません。
そんなものは初めからどこにもないのです。
弱い者同士が互いの欠点を受け入れ、補い合うのが、聖書的な教会です。
そこに目を塞ぎ、壮大な美辞麗句を語ってもそれは神の御前で虚しいことです。

③自分たちの教会の内部で起きていることを正直に認める

彼らは自分たちの内部で起きていることを隠蔽(いんぺい)する傾向があります。
なぜなら自分たちの教会は日本の教会からエクソダスしてきた教会であり、問題があるはずがないと考えるからです。
しかしエクソダスなどは妄想に過ぎず、彼らの教会もまた欠けの多い者同士が集まって構成される教会の一つなのです。
ですから問題が起きるなどは当然のことなのです。
しかし彼らにはそれは受け入れられないことですから、どうしても隠蔽するようになります。
そのような偽善的なあり方を捨てて、現実に起きている問題を認め、その問題を解決することに全力を尽くすことです。
そのような営みを通して、教会は成長するように神によって定められているのです。

◎初め小さな団体であり、セクトと呼ばれているようであっても、聖書の福音に忠実に従うなら必ず祝福され成長することが出来ます。
しかし聖書に書いていないことを福音であると詐称するなら、その団体は必然的にカルトへと変質していかざるを得ません。
神の御前で大言壮語することを止め、罪人でしかない自分を認めつつ、光の中を歩むように願ってやみません。

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コメント

  1. キリストの花嫁 より:

    ありのパパさんの投稿全て当てはまりました。
    追い出された教会はことごとく書かれていることを網羅しておりました。
    カルトであることを確認できて感謝します。

    • ありのパパ より:

      初めてのコメントをありがとうございます。
      文章を読みやすいように一部手直ししました。
      ご了承ください。