自分自身を受け入れ、隣人を受け入れるとき御霊の一致が可能となる

クリスチャンの一致とか教会の一致とかキリスト教ぐらい「一致好き」の信仰はないかもしれません。
しかしキリスト教ぐらい一致するのに難儀しているところも珍しいです。

教会は「一致する」ということの聖書的意味を捉え損なってきたと思います。
一致と言いつつ同一化であったりします。
そこで三位一体の神の関係が信者の一致の模範であることを聖書から見ていきます。

1.三位一体の神のうちにある一致とは?

①イエスと父なる神との特別な関係

イエスが父なる神について言及されるとき二つの特徴があります。
一つは父なる神に対して敬意を現していること、もう一つは父と自分が本質的に一つであることを表明しておられることです。

後者については、(死者が神になってしまう)日本的文化の影響のもとにあると普通のことに思われます。(困ったことですが)
しかし全能者である神と被造物である人間の存在を厳然と区別するユダヤ教のもとにあっては神と自分を同一視することは忌避(きひ)すべきこととされます。

②本質において同一であるが人格において別個の存在

イエスがヨハネ福音書17章で語っておられることは三位一体の神観そのものであると言ってよいものです。
その特徴は父と自分を別々の存在としていることです。
もし同一の存在であるなら(子が父に向かって)語り掛けるという行為自体が成立しません。
イエスが父と自分を別々の存在として認識していたことは明らかなことです。

また別の個所では聖霊なる神に向かっても敬意を現しています。
同時に聖霊なる神を「助け主」と呼んでご自分と本質的に一つであることを表明しておられます。

③三位一体の関係を弟子相互の関係に反映させる

以上のことから明らかなことは三位一体の神はそれぞれが別の人格をもっておられること、同時に本質において一つであられるということです。

大切なことはイエスはこの聖書個所で三位一体についての教えを述べておられるのではないということです。
イエスがここで教えておられるのはイエスご自身が父と持っておられた関係を弟子たち相互の関係に反映させることでした。

2.信仰者における一致とはどのようなものか?

①各々が別々の存在である

これは当たり前のことであるように見えて本当には理解するのが難しいことです。
教会の中でも単に押しが強いというのを超えて自分の思い通りにしたいと思っているように見える人々がいます。
そのような人たちは心の中で「他者は自分のようになるべきだ」と思っているのです。
「いや、私はそんなこと思っていない」と言われるかもしれませんが、これは無意識の領域でそう思っているということです。

私たちはみな違った存在であり、一人一人個性豊かな存在であるのです。
ですから私たちは隣人の豊かな個性を尊重する者でなければなりません。
間違っても「あなたは(私のように)教会活動に熱心になるべきよ」などと考えてはなりません。

②自分という存在を受け入れてくださっているイエス

私たち一人一人は好き勝手に自分の道を歩んでいけば良いのでしょうか?
決してそんなことはありません。
なぜなら私をありのまま受け入れてくださったのはイエス様であり、隣人を受け入れてくださっているのもイエス様なのです。
世の中のどこの探しても、このような救い主はおられません。

もちろんカウンセラーもそれを目指しているのですが、正直なことを言うと自分自身を受け入れることさえおぼつかないのです。
そのような私をそれでもなお「それで良い。そのままのあなたで良い」と受け入れてくださる御方におすがりしているのです。
ですから私たち一人一人はみな同一の御方に受け入れていただいている者同士です。

③イエスはぶどうの木、私たちはその一部。

ぶどうの木には幹(みき)も枝(えだ)もありません。
キリスト信者はキリストの共同体に属しているのです。
これをエクレシアと呼びます。
このエクレシアは目に見えない教会であり、歴史を通し、地域を通して、普遍的に存在する教会です。

このような意味からも「日本の教会からエクソダスしなければならない」などという教えが偽りそのものであることが明白です。
そしてエクソダスしていった先がカルト教会であったとしたら笑い話ではすまない問題です。

3.一致の基本的条件

①私たちは一人一人個性があり異なった存在であることを受け入れる

自分と違う人を受け入れることを難しく感じる人は本当には自分自身を受け入れていない人です。
自分自身をありのままで受け入れている人は毛色の変わった人であっても受け入れることが出来ます。

ですから隣人を受け入れようと悪戦苦闘するよりも、まず自分自身を受け入れる練習を始めることです。
例えば時間にルーズな人を受け入れることが出来ない人は本当は時間にルーズな自分自身を受け入れていない人です。
それでその人を見ると引き出されるのです。
その引き出された部分が受容していない部分ですから、そこの所を受容するように努めることです。

②平和の絆(きずな)とは何か?

エペソ書4章3節には『平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい』(新改訳聖書)とあります。
平和のきずなとありますから、これは押し付けや強制が伴ったものでないことは明らかです。

③「御霊の一致」をどう解釈するか?

リベラル派は教団の合同や教派間の一致を論じるときに御霊の一致ということを持ち出します。
これとどういう関わりがあるのか全く不明です。

ペンテコステ派やホーリネス派は御霊の一致を聖霊の満たしによって可能と考えます。
しかしこれは笑い話でしかありません。
なぜならペンテコステ派やホーリネス派の教会ほど分裂騒ぎが起きる教会はないからです。

自分自身のありのままを受け入れ、隣人のありのままを受け入れ尊重するとき、御霊の一致を保つことが可能となります。

◎平安と祝福を祈っています。

“自分自身を受け入れ、隣人を受け入れるとき御霊の一致が可能となる” への2件の返信

  1. こんにちはアブラハムです。
    アブラハムのアの字にもほど遠い薄信仰ですがよろしくお願いします。
    妻にアブラハムというペンネームを頂いた事を告げると、じゃあ私はサラねって喜んでました。

    まだ若い頃の話ですが、私はある兄弟の事をずるい人だと思ってました。
    そこでそのずるい兄弟の為に祈ろうと決意し、真剣にその兄弟がずるさから解放され、ずるくない自由な兄弟になれるよう祈りました。
    ところがある日、何故私はその兄弟がずるいと思うのかと自分自身に問いかけてみました。
    そこで分かったのが、実は私がずるい人間だから、兄弟のずるさが見えると分かりました。
    もし私がずるい人間ではなかったなら、きっとその兄弟がずるいなんて思わなかったはずです。
    主はずるい方ではありません。恵み深く愛なるお方です。
    私はなんて事をしてたんだ!主が十字架で血潮を流された程にこの兄弟を愛しておられるに!
    私は涙ながらに悔い改めました。
    そして私自身がずるさから解放され変われるように求めました。

    しかし時が経つとまた別の兄弟達を心で裁くようになり、しばらくしてハッとし自分の愚かさに嘆く事の繰り返しでした。
    それでもこんな自分を愛し続けてくださる主の愛は何と大きいのでしょう。
    そのうち、この自分の愚かさの原因が肉にある事が分かりはじめました。
    情欲と共に肉を十字架につけるしか無いと悟りました。
    あなたが測るはかりであなたも測られ、あなたが裁く裁きであなたも裁かれる。
    まさにそのとうりで、十字架の贖いこそが弱いながらも主の恵みを頂く最高の神様の愛だと、感謝しきれません。

  2. こんばんは、アブラハムさん。
    コメントをありがとうございます。

    お証をありがとうございます。
    そうですね。仰る通り、気づきが与えられることが大切ですね。

    もう一つは、パウロがマルコのことでバルナバと大喧嘩したとき「私は罪を犯しました。あぁ~」なんて一言も言わず、淡々と伝道しています。
    私たちなら「聖霊に御言葉を語るのを禁じられた」ら、「きっと私が犯したあの罪のせいに違いない」と思い込んで、悔い改めに全力投球しているのではないでしょうか。
    しかしパウロは「それがどうした!」とばかりに伝道を続けます。

    私たちの愚かさをも含めて、主は十字架に掛かって死んでくださり、解決済みとしてくださいました。
    あとの地上生涯において起きる問題は12ステップで解決していくことが可能です。
    この12ステップに取り組んでいくことが、私たちの霊性を豊にしていきます。

    またコメントしてください。お待ちしています。

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