喜びを体験しようとするなら産みの苦しみを覚悟しなければなりません

産みの苦しみとは女性の出産のときの苦しみを指した言葉です。
ヨハネの福音書16章21節には『産みの苦しみを経験しても、後で子供が産まれるとその喜びのために苦しみを忘れるようなものです』とあります。

産みの苦しみということについて考えます。

①喜びを体験すると産みの苦しみを忘れてしまう

産みの苦しみを体験して出産した子供が自分の意に沿わない行動をしたとき、産みの苦しみがぶり返します。
それで多くの親御さんたちは愚痴を言います。
「何のために子供を産んだのでしょう?子供を育てても少しも良いことはありませんでした」

本当にそうでしょうか?

a.幼かったときの子供の笑顔に癒されたのは、どこの誰でしょうか?

b.「子は鎹(かすがい)」と言いますが、もし子供がいなかったら当の昔に離婚していなければならなかったかもしれません。

c.子育てによって成長できたのは他の誰でもない自分自身ではないでしょうか?

この三つのことを考えるとき、子供に与えた貸しはもう十分に返してもらっていることに気付くのではないでしょうか?

②長すぎる苦しみは人に傷を与えてしまう

心に傷が出来ると産みの苦しみはいつまでもその人の中に居すわってしまうことになります。
ですから良く心を見張って自分の心の中に傷がないかどうかを調べなければなりません。
傷があることが分かったら、その傷をどうにかして癒すことです。
そうすると産みの苦しみを忘れて喜びを体験できるようになります。

③喜びを体験するには苦難を避けて通れない

イエスは『わたしがあなたがたから離れることはあなたがたに悲しみを与える。しかしそれは良いことである』と言われました。
なぜならそうしないと救いは成就しませんし、聖霊である神が私たちに与えられることがないからです。

ここで注目すべきはイエスはご自分が十字架に掛かることを問題にされず、ご自分が弟子たちから離れることによる弟子の悲しみを問題にしておられるということです。
私たちは自分の問題にのみ目を向けて心が一杯になり、人様の苦しみや悲しみにまで配慮できないことがあります。
しかしイエスはそうではありませんでした。
いつでもご自分のことをではなく、自分以外の者のことを心配してくださいました。

④聖霊が与えられるためにイエスが私たちから離れることが必要

イエスが『もう一度あなたがたに会うとき』とは一体いつの時を指しているのでしょうか?
これは再臨のときを指していると思われるかもしれませんが、後に続く節で『私の名によって求めるものは何でも与えられるようになる』と言われていることから、これは再臨を指しているのではないことが分かります。

なぜなら再臨後は全てのものが与えられるので求める必要はないからです。
また再臨後は私たち信者はイエスと目と目を合せて永遠に過ごしますから、どなたにお願いするかということは問題にならなくなるからです。
そうすると『もう一度あなたがたに会うとき』とは聖霊が私たちに与えられることを指していると考えるのが妥当であるということになります。

⑤聖霊が与えられる目的はイエスの名によって求めるものが父である神から与えられるため

ある敬虔な人々がこんなことを言っているのを聞きました。
「自分が欲しいものを求めれば与えられるというのは『繁栄の福音』ともいうべき教えである」
これを聞いて、ありのパパは大変悲しくなりました。
それはこの人たちは自分が語っていることによって、彼らが未だに二元論的世界観の中にいることを明らかにしているからです。

霊的な事柄と物質的な事柄を分けて考える理解をグノーシス主義と言います。
イエスは霊的なものはもちろん物質を含めて全てのことを支配しておられるのです。
ですからイエスを信じて救われるということは、イエスが持っておられる全てのものの御裾分(おすそわ)けにあずかることが出来るということでもあるのです。
それにもかかわらず私たちが「イエスから貰うのは霊的なものだけで結構です。あとは自分で何とかします」と言うなら、それは神を悲しませることです。

私たちも神によって備えられた冠を得るために目前の苦難の道を走り抜けたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

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