悔い改めることなしには救われることも真に赦しを得ることもできない

福音派教会において昔から議論されてきたことがあります。
それは「救いにおける悔い改め」の位置づけです。
皆さんとご一緒にこの問題を考えます。

1.「悔い改め」の位置づけ

①悔い改めは必要か、必要ないか?

ある人たちは救いは神の恵みによるのだから悔い改めなどという人間の側の働きは必要ないと主張します。

別のある人たちは救いは悔い改めという道を通ってイエスのもとに行く者にのみ与えられると主張しましす。

どちらが正しいのでしょうか?
これは明らかに後者の人たちの意見が聖書から見て正しいと思います。

しかし後者の意見の人たちは現実の問題として人間の側の働きを聖書が言う以上に強調するという誤りをも犯しました。
あまりにも悔い改めという人間の側の働きを強調しすぎて、救いが無代価で与えられるものではなく人間の働きも必要と思わせてしまったのです。

それでは結局「救われたのは私が悔い改めたから」ということになってしまい律法主義と変りがなくなってしまいます。

②悔い改めとは人生の方向転換

人生を方向転換したら、それはすべての人に明らかに分かります。
全然違う道を歩み始めたのに周りから見たとき以前と全く変りがないというのはあり得ないことです。

もちろんこれは「すっかり変わった自分を演じる」ということではありません。
救いの本質が努力して救われるという道、即ち合格ラインまで達したら救われるという生き方から努力しなくても救われることが出来るという道、即ちありのままの自分で救われるという生き方への転換である以上、生き方の変化が周囲に気づかれないはずはありません。

2.悔い改めが強調されないとどうなるか?(実際的な問題)

①30年前は悔い改めの問題は理念的・神学的問題だった

現在では実際的問題になっています。
レイプの罪を犯したにもかかわらず、本人と家族に謝罪することを拒否した牧師がおります。

被害者の方はこの事件の影響で精神疾患を患い、遂に自殺に追い込まれました。
それでもこの牧師は謝罪しませんでした。
その牧師がある所で堂々と「私には赦された確信がある」と言いました。
どうしてこんなことになってしまったのでしょうか?

②相手との和解なしの赦しはありえない

聖書には『礼拝に行く前に兄弟との間にトラブルがあるなら、それを解決してから礼拝に行け』と書かれています。

そうであるのに「神と私」という関係だけで全ての問題を解決しようとするのは間違ったことです。

悔い改めの原則は

a.神に対して犯した罪なら、神に対して悔い改める。

b.特定の人に対して犯した罪であるなら、その人に対して謝罪・賠償・和解を行う。

c.法規範に対して罪を犯した場合は司法の裁きに委ねる。

というものです。

この牧師はレイプという罪を犯しながら、その本人にもご家族にも謝罪をせず、賠償金の支払いも初めは渋っていました。
ここから明らかなことは、この牧師がどれほど「自分には赦された確信がある」と言い張ったとしても神の御前では悔い改めとは認められていないということです。

この牧師が身勝手な主張をする原因の一つに、この牧師が所属していた教団が[救いの確信]を強調したという所に関係があると思います。

ウェスレアン神学における救いの順番は[a.悔い改める b.信じる c.救いの確信が与えられる]というものです。

しかしこの牧師には悔い改めるということが決定的に欠けています。
多分この牧師は被害者との関わり抜きに一人勝手に神様のところに行って悔い改め、それで赦しの確信を頂いた気になっているのだと思います。

3.聖書的な悔い改めとは?

①自分の無力を認める

真の悔い改めとは自分の無力を認めることです。
それなしには、ほとぼりが醒めるとまた同じ罪を犯してしまうのです。

アル中が飲酒に対して無力であることを認めない限り、アルコール依存症から解放されないように、性犯罪者が性犯罪に対して無力であることを認めない限り、同様な罪を犯す危険性は極めて高いと言わなければなりません。

②迷惑をかけた人への謝罪

依存症のリカバリープログラムである12ステッププログラムでは迷惑をかけた人への埋め合わせを行います。
埋め合わせすることによってのみ真の成長を手に入れることが出来ます。

告白も、信仰も、決断も、みな心のうちで行われることであり、それが真実なものかどうかは実践によってのみ知ることが出来ます。
どんなにしんどくても謝罪と埋め合わせを行わなければなりません。

③公の告白

アルコール依存症者はミーティングで自己紹介するとき「元アル中の○○です」と名乗ります。
これは自分が何者であるかを忘れないためであると共に周りの人への宣言でもあります。
まさか「元アル中です」と自己紹介する人に酒を勧める人はいないでしょう。
自分が何者であるのか自分にも周りの人にも明らかにし続けなければなりません。

人が罪から完全に解放されることはありません。
いつでも罪の誘惑という名前のサタンが口を開けて獲物が戻ってくるのを待っているのです。
私たちがキリストにあって新しい人生を送るためには本当の意味での悔い改めがどうしても必要です。

◎平安と祝福を祈っています。

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