進化論と聖書信仰

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聖書信仰を標榜する教会はみな、創造における神の御業を信じています。
これはとりもなおさず、神様抜きに生物が進化したと考える進化論の否定につながります。
ここまでは、福音主義諸教会の見解は一致しています。
問題はここからです。
ある人々は聖書信仰に「創造科学」という人間が作り上げた学説を付け加えています。
今日は皆さんとご一緒に、この問題を考えてみたいと思います。

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1.創造科学と福音主義

①創造科学の母体は根本主義キリスト教

自由主義キリスト教は進化論を容認する立場でした。
それでアメリカ国内の各教団・各教派に浸食してきた自由主義キリスト教に対抗するため、進化論に反対することは戦術的には有効でした。

②根本主義キリスト教の実態

日曜礼拝の講壇に動物園から猿を連れてきて「皆さん、自由主義キリスト教は人間はこの猿から進化したものであると教えるのです。皆さんはこれを一体どう思われますか?」と説教するなどのことがありました。
根本主義キリスト教と自由主義キリスト教の論争は、根本主義の勝利に終わったと言われています。
しかし社会の人々の目には「根本主義キリスト教は論争(戦術)には勝ったが、戦い(戦略)には負けた」と映ったようです。

③福音主義キリスト教の出自(しゅつじ)

第二次世界大戦後、このような根本主義の反省から福音主義が台頭してきました。
福音主義が根本主義と違うところは何かと言うと、聖書を誤りのない神の言葉と信じつつ、各領域における学問的成果を神の賜物として受け入れるということでした。
ですから今でも根本主義キリスト教はカウンセリングなどには否定的です。
「そんなものは御言葉を信じることで解決する」というわけです。
このようなことを本気を信じている人々は確かに純粋であるとは言えるのですが、現実を見てみると問題はいつまでも解決しないままであり、へたをすると問題が解決した振りをするという演技と偽善に陥ってしまうこともあります。

○福音主義キリスト者の基本的なスタンスは「聖書は誰が何と言おうと神の言葉なのだから、ヒステリックになる必要はない。もっとゆったりとした気持ちで物事に接して良い」というものです。

2.創造科学の誤り

①聖書は、一日を24時間として数えて、7日間で天地を創造したとは、どこにも書いていない

聖書解釈の基本的な立場は、聖書が明確に書いていることは明確に主張し、それほど明確に書いていない場合は私たちもそれを明確に主張することをしないというものです。
それにもかかわらず、創造科学の立場に立つ人々はこの基本的な聖書解釈のルールを完全に無視しています。

○聖書を虚心に読む限り、天地創造の7日間における一日の長さを、現在の私たちが使っている「時(とき)の単位」である24時間とする根拠を聖書から見いだすことは決して出来ません。

②創造科学の人々は、聖書にない教理を[付け加えて]、自説を完成させている

初めに主張があって、その主張の裏付けのために聖書を利用するということがあってはなりません。
虚心に聖書を読み、その営みの中から自然にまとまってくるのが真の聖書的教理です。
彼らの聖書引用法は「これこれのことを聖書は否定しないから、私たちの主張は正しい」というものです。
しかし正しい聖書引用法は「これこれのことを聖書は明白に言っているから、私たちはこのように信じる」というものでなければなりません。

③創造科学の怪しさ

最近、創造科学の立場に立つ牧師の説教を聞いたのですが、この方は創造科学そのものが聖書の教えであるとはっきり宣べ伝えておられました。
しかし論証の仕方は、大変偏ったものでした。
相手陣営の言っていることを一面的に取り上げ、聴衆が否定できないようにしてから、二者択一を迫るという手法でした。
通常の論証は「相手側が言っていることを相手側の理解に沿って取り上げ、その上で私たちはこのように考えるが、皆さんはどう思うか?」というものです。

3.間違った主張の原因は何でしょうか?

①単純・素朴なのは信仰だけで良い

今の状況は、創造科学は裸の王様のようです。
なぜなら創造科学を認めないと福音派ではないという思い込みを与えられて、長らく福音派教会の王座を保ってきました。
しかし聖書を読むと、そんなことはどこにも書いていないという事実にみんなが薄々勘づいてきました。
それでいつかは正しい聖書信仰に立たなければならないと考える人々が増えてきました。

②単純・素朴の信仰を支える神学は厳密でなければならない

創造科学の目指す理念は正しいものです。
ただし、そのやり方は決して認められるものではありません。
聖書が教えていないことを、「聖書がそう言っている」と我田引水的に引用することは神の御前で罪です。

③聖書よりも自分の意見を優先させてしまう危険

どんな神学でも、一線を越える危険というものが存在します。
カルビニズムは神の主権を強調しようとして、聖書に書いていない「救いの予定」ということを主張するに至りました。
ウェスレアニズムも、人を潔める神の働きを強調しようとして、「原罪の除去」という教えにまで進んでしまいました。
これはみな、教理的脱線です。
論理というものは一人歩きするものです。
ですからいつも見張って、自分たちの教理的主張が聖書の範囲を越えないように警戒していなければなりません。

◎「良いんじゃないの~。言いたいこと言わせておけば。」と思われる方もいるかもしれません。
しかしそれは結局、致命的な大失敗を教会が犯すことを黙認することにつながります。
自分自身が神の言葉である聖書を読んで、間違っていると確信するなら、間違っていると言わなければなりません。

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