聖霊は気づきを与えてくださる霊

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妻の夫に対する不満の多くは、とても小さなことです。
しかしその小さなことを変えるためには、大きな気づきが必要です。
この「気づき」というものは、ある意味ではやっかいなものです。
なぜなら、周りの者が思うほど、簡単には気づくことが出来ないからです。

ある時、簡単に「分かった」と言うものですから、本当に分かったのかと思えば、単に抑圧と演技に過ぎないこともあります。
この場合は、いつか化けの皮がはがれることになりますし、不満というエネルギーを貯めた分、反動もまた大きいのです。

夫婦共に、切れたときに言うセリフで多いのが「私が(あるいは俺が)、こんなに我慢しているのに、あなたは(あるいはお前は)何で分かってくれないの!」と言うやつです。
この時「誰もそんなこと、頼んだ覚えはない」と言ってはなりません。
夫婦関係が「はい、それまでよ」ということになってしまいかねません(笑)。

今日は皆さんとご一緒に、どうしたら気づきを得ることが出来るかということを考えてみたいと思います。

1.聖霊は私たちに気づきを与えてくださる。

『聖霊があなた方に全てのことを思い出させてくださる』と聖書にあります。
ではどのようにして聖霊は、私たちに思い出させて(気づきを与えて)くださるのでしょうか?

①無条件に愛してくださることによって。

何回失敗しても、罪を犯しても、私たちが悔い改める気持ちを持っている限り、神との個人的関係において、神は赦してくださいます。

②神の愛が無制限ではないことを教えてくださることによって。

もし私たちが罪を犯して、それを当たり前であるかのように思い、悔い改めることをしないなら、私たちは神の愛からこぼれてしまいます。
愛とは、双方向のものです。
神が私たちを一方的に愛してくださっていても、私たちの方で神から離れるなら、神から来る恵みを拒んでしまうことになります。

③人々を通して。

クリスチャンになったからと言って完全になったわけではありません。
また完全でないからと言って、成長しないで良いわけでもありません。
私たちは罪人でしかない自分を認めつつ、ありのままの自分と隣人を受け入れることが出来るように成長していくことが必要です。
人間関係において、周りの人が自分に対して不満を述べないとするなら、私たちはどんなにラクでしょうか。
しかしその場合、成長もありません。
私たちは都合よく、人に文句を言われるのはいやだが、成長はしたいと無い物ねだりをします。

それで神秘主義や分離主義は、人々に人気があるのです。
なぜならこれらのものは人々に苦労せず成長できるかのような幻想を振りまくからです。
分離主義の人たちは、自分の中にも同じ欠点があるにもかかわらず、他の教会の欠点を見いだして、本当に楽しそうにあげつらいます。
このようなこと自体が、実はこの人たちが人格的に問題を抱えていることの印であるのです。
もし本当に成長したいと願うなら、彼らと自分は全く同じであるのを認めることからスタートしなければなりません。

2.人に気づきを与えるには、どうしたら良いか?

聖霊は祈りを通して、聖書を通して、教えてくださいますが、最も多く用いられる管は人々を通してです。
では、私たちが管となるために心得ていなければならないことは、どんなことでしょうか。

①「気づけ!コノヤロー」と思っている限り、相手は決して気づきません(笑)。

お母さんがお子さんに向かって「あなたは何回言っても分からないんだから、ほんとにモ~」と言っているのを聴くと、「牛じゃないんだから(笑)」と思ってしまいます。
また、問題があるのは、何回言っても分からない方にあるのか、それとも何回言っても分からせることの出来ない方にあるのかを考えなければなりません。
もちろん、問題があるのは、何回言っても分からせることの出来ない方です(笑)。

②相手の方をありのままに受け入れるとき、その方は気づきを得ます。

「このようになったら、合格」という対処の仕方を変え、「どのようなあなたであっても、合格」という有り様に変わるなら、そのように対応してもらった人は、どんな人でも変わらざるを得ません。
ですから、学校に行けなくなったお子さんを持つご両親は、ひとまず「学校に行け!」というのを控えて、「どんなあなたであっても、OK」というメッセージを送ることに全力を尽くすことです。

③「受容したら、相手はきっと気づくはず」と考え、受容したつもりになっている限り、相手は気づかない。

信仰と自動販売機は違います。
しかしなんと多くの人が、信じたら救われるというのを、自販機にお金を入れたらコーラが出てくるということと、同じに捉えていることでしょうか。
鬼のような顔をして「受容してやるけど、必ず変われよ。変わらなかったら承知しないからな!」と内心思いつつ、作り笑顔で「そのままでいいのよ(笑)」と言ったところで何の効果もないのは分かりきったことです。

信仰とは、お委ねすることです。
「そうなっても、またたとえそうならなくても、私は良い」と考えることです。

3.相手を受容することと、肯定することの違い。

時々「受容したのに少しも良くなりません!」と言われる方がおられます。
それでお話をお伺いしてみると、「あなたがしていることは受容ではなく、肯定です」と申し上げなければならない場合もあります。
ではどうしたら受容と肯定を見分け、相手が肯定ではなく、受容されたと感じることができるでしょうか?

①相手の行いを肯定したら、相手はそのままで良いというメッセージを受け取るから、変わることはあり得ません。

日常生活の中で、受容と肯定は紙一重の違いしかありません。
同じことをやっても、状況の違いで、ある時は肯定に、ある時は受容したことになってしまいます。
ですから知恵深く状況を良く読むことが大切です。

人に聞きたくなりますが、現場では誰も教えてくれません。
自分で考え、決断するほかはありません。
ですから、ご自分でチャレンジし続けることが、受容能力をアップさせていく唯一の道です。

②相手の存在を受容するとき、価値ある自分自身の存在に目覚め、それにふさわしい行動をするようになります。

受け入れられていると相手が感じるとき初めて、自分は価値ある存在であるとの自覚がやってきます。
これは本当に不思議なことです。教えて分かることではないかもしれません。

③そうせざるを得なかった気持ちに共感することによって、受容されたと感じるようになります。

やったことを肯定することは出来ませんが、そうせざるを得なかった相手のお気持ちを共感することは出来ます。
そのようにして神の愛が私たちを通して人々に流れ込むのです。

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