何を求めれば良いのか?(その2)

昨日は、自分に必要なものは何かを、自分自身が知っている必要があることを学びました。
そしてそれはa.自分の中に空虚感があること、b.人間関係の秘訣を学ぶこと、c.愛とは何かを知るべきことの三点でした。
さて今日は、どんな点に注意して生きていけば、このような間違いから免れることが出来るのかを考えてみたいと思います。

3.「正直に生きる生き方」を選び取る。

①正直に生きるとは?

正直に生きる生き方とは、嘘をつかない生き方ではありません。
むしろそれとは真反対の生き方です。

正直に生きることを講演しておられる方のところに、ある会社から「嘘をつかない生き方」というテーマで話をしてほしいという依頼があったそうです。
そうしたところ、その方は依頼された会社の方に「申し訳ありませんが、私はそのテーマでお話をすることは出来ません。このテーマなら詐欺師に依頼されるのが最も適当であると思います。」とお答えになられました。
これは「嘘をつかない生き方」は結局のところ「ついた嘘を隠す生き方」に堕してしまうということを仰りたかったのでした。

では正直に生きる生き方とは、どのような生き方でしょうか?
それは失敗や過失を犯すことは、人間にとってどうしても避けることの出来ないものであると認め、その失敗や過失を隠さず、むしろ積極的に認め、今後の活動に活かそうとする生き方です。

○浜松のカルト教会の問題に、この原則を適用するなら、こうなります。
今のような状況になったのは、牧師である自分の責任であることをはっきりと神と人の前で、また自分自身に認めることです。
「あの人が悪い」「この人に問題がある」と人のせいにするのを止めて、自分に問題があるのをはっきり認めることによってのみ、道は開けます。

②無力であることを認める。

私たちは誰でも自分が持っているもので、事態に対処しようとします。
それでは如何ともしがたいことが明らかになって初めて、自分が持っていないもので事態に対処することを決断させられます。
この牧師の場合も、人間関係のスキルが乏しいことを自覚しないまま伝道者になってしまい、現場に出てからは、自分に人間関係能力が乏しいことをうすうすは感じつつも、それに気づかない振りをしたのではないでしょうか。
そして今自分が持っているものでは追いつかないことが明らかになったとき、暴力と教会のカルト化という禁じ手を使ったのだと思います。

この牧師がなすべきことは、正直に生きる生き方を選び取り、人間関係における能力が乏しいことを認めることです。
そうして神様なら、この問題を解決することが出来ると信じることです。

③自分の意志と生き方を、神の御心に従わせる。

多くの人は、このような決断を他人に知られたくないと願います。
ありのパパもそのような人間の一人です。
しかし新しい生き方を始めるのに最も良い方法は、過去の生き方と厳然と決別することです。
このためにも、人々の前で、過去の自分のやり方を悔い改めることが、どうしても必要になってきます。

◎『あなたがたは良いスタートを切ったのに、なぜ今になって肉の力で完成させようとするのか?』と聖書は言っています。
信仰とは、自分が無力であることを認め続けることにほかなりません。
それが働きの実がなってくると、その働きに信仰をおくようになる危険があります。
神様は、すべての人に気づきを与えておられます。
この神の光に、応答するかどうかは私たちの自由意志に掛かっています。
すべての信仰者が、『死に至るまで忠実であれ』と言われた神の命令に従うようにと願ってやみません。

“何を求めれば良いのか?(その2)” への2件の返信

  1. 神の前にも、同じように人の前にも謙遜であれということですね。

    それは現実を認めると言うことですね。

    その謙遜も内からでるものでなければ意味がないわけですね。

    それは決して自分ではできないので

    謙遜であることを祈り求めることが大切なのだと思いました。

  2. angelさん、こんにちは。
    コメントありがとうございます。

    神様は「ありのままの私」を受け入れてくださいます。
    そこに立ち続けることが出来れば、すべてOKではないでしょうか。

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