失敗しない秘訣(その1)

「敵を知り、己を知らば、百戦危うからず」という言葉があります。
ほんとか?
嘘だと思います(笑)。
なぜかと言うと、まず第一に順番が違います。
一番知らないといけないのは自分自身です。
敵を知るとは、敵から見た自分自身を知るということですから、これも自分を知るという中に含まれることです。

第二に、戦わずして勝つのが強い者のやり方です。
「負けるが勝ち」という諺がありますが、これを弱い者がやったら致命的な敗北を期してしまいます。
これをやっても良いのは、圧倒的に強い者だけです。

さて、今日は皆さんとご一緒に、どうしたら失敗しないで済むかを考えてみたいと思います。
その前に、失敗した人の実例を見て、なぜ失敗したかを見てみたいと思います。

1.自分を知らないで失敗した実例

①ペテロの場合

ヨハネ福音書の13章37節には、「あなたは私に付いて来ることが出来ない」とイエスに言われたペテロが「あなたのためなら命も惜しくありません」と啖呵(たんか)を切ったことが記されています。
ペテロは自分の本音を知りませんでした。
彼の本音は「命が惜しい。迫害者が恐い。」というものでした。
もし彼が事前に、この自分の本音を知っていたら、このような大失敗を犯すことはなかったでしょう。
彼は、自分自身という存在に対してぞんざいであり、「こうありたい」という希望が、即自分自身の本音になると天才的な誤解をしていました。
しかし事実はそうではありませんでした。
それで彼はいざというときに、自分の希望という名前の建前ではなく、自分自身の本音に従うことになります。

②戦前の日本の教会の場合

戦前の日本の教会は高い神学的水準を誇っていました。
また「人数は少なくても、内容は良い」などと、変な自慢をしていました。(これは戦後も続きました。)
しかし、いざ主にお従いしなければならなくなったとき、恐れに支配され、神道原理主義政府の言いなりになってしまいました。

③現在の教会の場合

ペテロのことも、戦前の教会のことも、みな昔話でしょうか?
「あぁ、昔の人は愚かだったんだな。今だったら決してそんなことはないのに。」という声が聞こえてきそうです。
しかし、私たちは今、目も当てられないほどの教会の腐敗を目の当たりにしています。
福音派教会の指導的牧師がマインドコントロール手法を使って、信徒にレイプ・虐待を行いました。
被害の事実を訴える信徒の声は黙殺されました。
中には「そんなことしてると、地獄に落ちるわよ。」と言った婦人牧師もいます。
また「私とあなたは教団が違うし、わたしはあなたに指図される覚えはない。」と言ったきよめ派の牧師もいます。
この人は裁判では、性的並びに肉体的・精神的虐待を行った牧師の側に付きました。
この事件では複数の裁判が行われましたが、いずれも虐待の事実認定は認められました。
それにもかかわらず、この牧師の味方をした者たちは、未だに謝罪をしていません。
時効が無ければ、有罪になっていた牧師を援護したことを、彼らは何ら恥じておりません。
この人たちは、牧師失格という以前に、クリスチャン失格と言わなければなりません。

2.失敗する原因はなんだろうか?

①本当の自分を知ろうとしない。

元気がある人・勢いがある人は、案外自分の本音を知ろうとしません。
なぜなら、やることなすこと大体うまく行くので、そんなことを考える必要がないからです。
また万能感が強いと、「こうなりたい」との願望は速やかに「もうそうなっている」という妄想に変わります。
この妄想は、不思議に人に元気を与えるものです。
しかし危機的状況になると、この妄想という奴は、どこかに逃げ去ってしまうのです。
そこで初めて、人は自分の本音・自分自身の実力というものに直面することになります。
「もう少し早く気が付いたら良かったね」と思っても、あとの祭りです。

②自分を過大評価する。

一昔前、可能性思考というのが流行りました。
今は勝間和代さんが旗振り役となって、「そう思えば出来る」と宣伝活動にいそしんでおられます。
これらの主張には、何ら現実的な根拠はないのです。
ただ多くの人の心の中に潜む「私だって、やれば出来るのよ」という思いを刺激しているだけです。

③人は神の作品であるという視点の欠如。

目標を持つ人というのは、どういうわけか周りの人を自分の目標実現のためのコマとして利用しようとします。
しかしみんな生きていて、人格がありますから、「コマなんかにされてたまるか」ということで離反するわけです。
(続く)

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コメント

  1. 冬猫 より:

    聖書を読むと人は創世記から何ら変わっていない気がしますね。
    人類最初の家族がすでに機能不全ですし、ヤコブもヨセフも含めほとんど不全家族…これが罪の結果なのでしょうか。

    結局、自分が世界の中心となるという事なんですね。本当は神様なのに。

    クリスチャンになる前に『マーフィー博士の眠りながら成功する』にはまった時期もありました。
    ポジティブシンキングと言う物も試してみました。
    全部だめだったのは自分の本音から離れていたのか。
    今ならさしず『ザ・シークレット』なんでしょうが、あの本は危険だと思いました。

    「赦せない心」は罪深く、クリスチャンとして救われない事になると言われ、例えば親を赦そうと、親へ歩み寄る努力をしてみましたが、やはり「本当は今は親の救いなんてどうでもいいい。むしろ完全に離れたい」と言う思いがあるとしたら、それが本音なんですね。
    その本音は罪だと感じてましたが、まず、その気持ちを無視するのではなく、向かい合う事なんですね。
    その行く末は私にはわかりませんが。

    今回の記事は自分自身のために読むところと思いますが、それでも

    >そこで初めて、人は自分の本音・自分自身の実力というものに直面することになります

    で、難しい相手から離れることで、相手が何かに気づいてくれる可能性もあるんだと思いました。

    努力しなければだめだという刷り込みがまだあるのかも。
    時々神様の所へ行くのに、足がすくむことがあるみたいです。
    思い切って駆け寄って抱きついてみます。

    いつも記事をありがとうございます。

    • arinopapa より:

      冬猫さん、こんにちは。
      コメントありがとうございます。

      ○私もマーフィー博士の「寝ながら成功する方法」のファンだった時期があります。
      彼がキリスト教会の牧師であることは、書籍の著者紹介で知りました。
      私にとっては「信じてやってみたけど駄目だった」というのが結論でした。
      しかしこの体験は後から後から出てくる「成功もの」に対する免疫力をつけてくれたと思います。

      ○親御さんに対する苦しい胸の内をお察しします。
      仰る通り、本音から出発しないことは全て虚しい結末を迎えると思います。
      「その行く末は私にはわかりませんが。」これがお委ねするということではないでしょうか。

      ○そうですね。神の御手に委ねるとき、人間関係の歯車が回りだすということを信じたいと思います。

      またコメントしてください