抑圧された本音を解放する(その2)

政府の仕分部会が始まりました。
ニュースを読む限り、役人の言い訳がまたもや噴出しているようです。
このような様子は第三者から見ると、お笑い番組でも見ているかのような気分にさせられるのですが、しかし本人たちは至って真剣です。
なぜなら、当の本人たちは自らが言い訳しているなどとはこれっぽっちも思っていないからです。
かえって「政府は何で分かってくれないんだ。政府の分からず屋!」と思い、自分自身を被害者であると感じているものです。
このように、他人からは明々白々なことが、当の本人には全く分からないということが多くあります。
どうしたら、私たちは気づきを持つことが出来るでしょうか?

今日は「抑圧された本音を解放する」の2回目です。
二回目の今日は、人間関係における処方箋を見ていきたいと思います。

3.人間関係におけるゲームから脱却する。

①原因を外部に求めない。

人間とは人のせいにする者です。
前出の「赤字になったのは私のせいではない」というものから始まって、「私が不幸なのはあなたのせい」というもので色々あります。
人のせいにすることを止めない限り、自分の本音に気づくことはありません。
なぜなら、自分の目が外部を向いている限り、自分の内部を見ることはないからです。
しかしこれは難しいことです。
どうしてかと言うと、人のせいにしている方が楽だからです。
しかし自分の問題として受け止めるとき、解決という名前の奇蹟が必ず起きます。

(注意:ここで書かれていることを決してレイプ被害者・虐待被害者・マインドコントロール被害者の皆さんに適用しないように。この場合、「私にも悪いところがあった」と思っている限り、癒しの業は始まりません。そう思わせることが、犯人たちの常套手段であり、そうすることは彼らの思うつぼだからです。)

②「私が悪いんだ」という一人芝居をしない。

ここで言う一人芝居とは、本当はそう思っていないのに、拗(す)ねてしまい、そのように振る舞うということを指しています。
ですからこのような人に向かって「その通り。やっと分かったか!」などと言おうものなら、血の海を見ます(笑)。
しかしこのような安物の三文芝居をやっている限り、自分の本音に気づくことはありません。
もしご自分が本音のところで「私はちっとも悪くない」と思っているなら、はっきりとそのように宣言することです。
癒しの芝居をいくらしても虚しいものです。
芝居を止めて、本音を生き始めるところから、癒しの業は始まります。

③自分が自分自身の人生の主人公になる。

人様のお話をお伺いしていると、ほとんどの方は傷つきながらも何とか脱出の道を探し求めておられるのですが、中にはそうでない方もおられるように見えます。
それは人への恨みの中に安住して、怨念というマイナスのエネルギーを糧にして生きているようなのです。
もちろんどんな生き方をしても、人に迷惑をかけない限り、その人の自由であるのですが、しかし口を開くと「私は癒されたいと願っています」と申されます。
自分でも自分の本音に気づかず、抑圧された本音に振り回されているのだと思います。
しかし自分が自分自身の人生の主役とならない限り、癒しなどというのは絵空事に過ぎません。

◎実はありのパパの中には、今も怨念や憎しみや恨みがあります。
しかしそれらは神の恵みによって、ありのパパのコントロール下にあります。
このようなマイナスの感情が表出する度ごとに、ありのパパは神へのラブコールをすることにしています。
「私にはあなたが必要です。私はあなたなしには生きていけません。私はあなたを愛しています。」
そうすると、悪魔が地団駄踏(じだんだふ)んで悔しがっているように感じるのが可笑しいです(笑)。
そういうわけで、以前は否定的な感情が押し寄せてくると「まだ、こんな自分であるのだ」と気落ちしていたのですが(それこそ悪魔の思うつぼです)、今は否定的な感情が襲ってくるのを楽しみに待っている自分がいるのです。
主を褒めたたえます!

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