互いに愛し合うということ

『あなたがたが互いに愛し合うなら、あなたがたがわたしの弟子であることを、社会の人々が知るようになります。』[ヨハネ13:35]

これは各教派が一致して伝道大会をやれば良いなどというお気軽なことを教えているのではありません。
また各教派の信徒が、教派の枠を超えて親密に交わりをすれば良いというのでもありません。

ではどのようなことを教えているのでしょうか?
カギはこの節の前にある14節の『主であるわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた、互いに足を洗うべきです。』にあります。

1.「足を洗う」ということの真意。

それは悔い改めということです。
主イエスが弟子たちの足を洗ったのは、弟子たちを悔い改めに導かれたということの象徴的表現です。

2.「互いに足を洗え」ということの意味

これは互いに非難合戦を行えということでしょうか?
ちがうと思います。
そんなことなら、言われなくても既にやっていることです(爆)。

第一に、足を洗うということが、日々の悔い改めを指していることは既に学びました。
第二に、その悔い改めを「自分でやれ!」と言うのではなく、イエス自らが悔い改めに導いておられます。
第三に、イエスが弟子にしたことを、今度は弟子同士でやるようにと言われました。

教会史の中では、洗足式は謙卑の象徴としてのみ捉えられてきました。
これも間違いではありません。
ただ洗足の意味するものを忘れて、謙卑ばかりが強調されるなら、本末転倒になります。

3.以上のことを総合的に勘案すると、次のような理解になるのではないでしょうか。

①「わたしはそれにふさわしい者ではないが、主イエスのご命令であるので、互いに悔い改めることに熱心になろう。」

私たちが互いに悔い改めに導かれるなら、社会の人々はクリスチャンがイエスの弟子であること知るようになります。

②何かきれいごとのようにも聞こえますが、決してそうではありません。

なぜなら、相手が気づいていない場合は気づきを得るようにしなければなりません。
時には厳しく指摘することが必要な場合もあるかもしれません。
これは傍目には泥試合にも見えるかもしれないことです。
しかし、このイエスのご命令に従っていると、結局は 社会の人々が認めるようになるというのです。

③現実の教会に目を向けるとき、犯罪を犯してなお、それを認めようとしない者がおります。

またそのような者たちと関係を結んだことを「それのどこが悪いのか」と居直る人々もおります。
このような状況の教会に向けて、このところの御言葉は書かれているのではないでしょうか?
そうだとしたら、私たちはこれらの者たちにあくまでも悔い改めを迫っていかなければなりません。
そうすることが主イエスの命令に従うことであり、社会の人々がクリスチャンがイエスの弟子であることを知る道であるのです。

◎レイプ犯の牧師が主催する催し物に出席していながら、お咎めなしというのはあり得ない話です。
福音主義キリスト者は聖書の命令に忠実に従わなければなりません。
このような歩みこそが、我が国にリバイバルをもたらす真の道なのです。
罪を犯し放題していながら、だんまりを決め込むような者がリバイバルを叫んでいる限り、本当のリバイバルはいつまでもやって来ることはありません。

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