洗足の指し示すもの(その1)

ヨハネ福音書の13章1節から9節に、イエスが弟子の足を洗われた記事が書かれています。
一般的なプロテスタント教会ですと、儀式と呼ばれるものは洗礼式と聖餐式の二つだけです。
しかし教会の中には儀式の中に、この洗足式(せんぞくしき)を加えているところもあります。
今日は皆さんとご一緒に、この洗足式の意義を考えてみたいと思います。

1.弟子の足を洗われたイエス

①日本人的なぺテロ

ペテロは『私があなたの足を洗わなければならない者ですのに、あなたに足を洗っていただくなど、めっそうもございません。』と言います。
そうするとイエスは『もしわたしが、あなたの足を洗わないと、あなたとわたしは何の関係もなくなってしまう。』と応答なさいます。
これはどういうことでしょうか?
皆さんは、どのようにお考えになられるでしょう。

②今は分からなくても、後で分かるようになる。

ありのパパは次のように考えています。
即ち、イエス様に良くしていただいたことの記憶が、試練や困難のときの耐え忍ぶ力になるということです。
ペテロが言ったことは正論です。
確かに私たちがイエス様の足を洗うべき存在なのです。
それで教会は献身や従順を強調いたします。
救っていただいたのですから、神に献身することや従うことは至極当然のことです。

しかしそれでは信仰がもたないのです。
どういうことかと言いますと、試練や困難のときに私たちの助けになるのは、私たちが神にしてあげたことでなく、神にしてもらったことの記憶なのです。

献身や従順が強調され過ぎるとき、神にしてもらったこと、即ち神の恵みが忘れ去られる危険があります。
それでイエスはぺテロに『もしわたしがあなたの足を洗わないなら、あなたはわたしと何の関係もなくなってしまう』と言われたのです。
のちにぺテロがイエスを否認するという失敗を犯したとき信仰を無くさずにすんだのは、このときのことをぺテロが良く覚えていたからではないでしょうか。

2.へりくだる必要のない人がへりくだることを謙遜と言う

①神であられた御方が人となってこの社会に来てくださり、さらに卑しい者の姿勢を取ってくださいました。

偉い人が偉そうにするのは、ある意味当たり前のことです。
しかし偉い人が仕える者の姿勢をとるのは、普通のことではありません。

ある牧師が「私は教会の便所掃除をする人でありたい」と申されました。
しかしいざやろうとすると、献身的な信徒がそれを許さないのです。
それでその牧師は便所掃除をするのを止めてしまいました。
まぁ、これは本当には便所を掃除する気はなかったのかもしれません。
ただ、便所掃除をやる謙遜な自分を演じたかっただけかもしれません。
もしこの時「あなたが私に便所掃除をやらさないなら、あなたと私は何の関係もなくなってしまう」と言ったら、その献身的な信徒は驚き慌てふためいて「それではわたしの家の便所も掃除してください」と答えたかもしれません(笑)。

②リーダーは仕えられる者か、それとも仕える者か。

日本社会におけるリーダーを見るとき特徴的なのは、支配的であるということです。
そのような意味で最も典型的なリーダーは、民主党の小沢幹事長でしょう。
もし小沢さんのようなリーダーがアメリカにいれば、即座に不信任されると思います。
党首の鳩山さんは、みなの意見が集約するのを待つタイプですが、日本社会では受けが悪いようです。
リーダーシップがないと言われます。
日本人は自分が主権者であるにもかかわらず、誰かに活躍してもらいたいのです。
そして自分は観客の役をやるか、評論家の役をやります。
要するに奴隷根性の持ち主が多いと言うことです。
それで文句を言われながらも、小沢さんのようなリーダーが生き残ることになります。
独裁者と奴隷は相性がよいのです(笑)。

③仕えるということと、こき使われることの違い。

混同しがちなのは、皆に仕えると言っても、それはこき使われるというのとは違うということです。
献金してやったのだから、公共工事をもって来てもらわないと困るとごねるのは贈賄(ぞうわい)です。
このような不当な要求に屈して言いなりになることを、こき使われると言います。

親が子供の言いなりになると、子供は健全に育つことが出来なくなります。
では、親が子供に仕えるとは一体どういうことでしょうか?
それは疲れて仕事から帰ってきたとき、子供が何か話したそうにしているのを感じたら、子供が自分から話しだすまで黙ってそばにいてやることです。
また、妻が愚痴を言い始めたら「また始まった」と内心思っても(笑)、「君のその気持ち、良く分かるよ」と言ってあげることです。

要するに、相手に仕えるというのは、相手のニーズを満たすということです。
こき使われるというのは、ただ単に相手の要求に応じているのに過ぎません。

◎イエスが仕える者の姿勢をとってくださったのですから、彼の弟子である私たちも仕える者となりたいものです。
祝福を祈っています。

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