よきサマリア人の聖書の話。助けられた人が今度は助ける人になる!

「善きサマリア人」と名付けられた聖書物語の中に、あなたご自身が登場人物として出てきます。
果たしてそれは誰でしょう?

登場人物は宿屋の主人、サマリア人、レビ人、祭司、盗賊、盗賊に襲われた人の6人です。

①宿屋の主人

ある方は「私は宿屋の主人かな」と申されました。
宿屋の主人は重要な役回りです。
なぜなら、この人がいないとサマリア人は自分の仕事をキャンセルしないといけませんでした。
またこの人は自分の通常の仕事をやりながら、病人の看病という余分な仕事を引き受けました。
なかなか出来ないことです。
またいくら顔見知りとはいえサマリア人の申し出を受けることは決断を要することでした。
ありのパパは、このような状況における人々の申し出を承諾することに困難を感じる人間ですのでなおさら尊敬の念をもちます。

②盗賊に襲われた人

ありのパパは誰かと言うと、盗賊に襲われた人です。
その心は「みんなに助けてもらってありがとう」というものです。
人は大抵、(神様抜きの)希望を抱いて人生を歩み始めます。
この段階において神とかキリストとか信仰はオプションに過ぎません。
要するに万能感に満ちあふれているため(自分が神という意)、キリストの救いなどお呼びでないのです。

しかし誰にでも自分の力では如何ともしがたい困難や試練が訪れるときが必ずやってきます。
これがキリスト教の人生観です。
その時、怪我の程度が軽いと万能感は無くならず、傷が癒されると再び自分が神になる可能性がありますから身動き出来ない位やられたほうが身のためです。

キリスト様に助けていただいただけでなく、あの人にもこの人にも助けていただいて「足を向けて寝られません」状態になるのです。

③レビ人と祭司

聖書では大変な言われようなレビ人と祭司ですが、これには理由があります。
それは盗賊に襲われた人から見た視点で語られているからです。

しかも恐るべきは、神もこの盗賊に襲われた人と同じ視点からレビ人と祭司をご覧になっておられるのです。
震え上がりますね(笑)。

みんな自分なりの言い訳があります。
「こんな忙しいときにトラブルを持ち込みやがって!」というのが本音であったとしても、それは神様には通用しないのです。

人は「もっと大人になれよ」とか「成熟しようね」とか分かったようなことを言うのですが、神は盗賊に襲われた人と同じ視点で人々を見ておられるのです。
なんと憐れみ深い神様でしょうか。

④盗賊

聖霊派の教会なら盗賊とはサタンであると言うかもしれません。
ありのパパなら盗賊とはカルト教会の牧師とそれに協力して恥じないスタッフと信徒であると言います。

しかし聖書の視点は盗賊が悪いというところにはなく、助けることを期待されている人々が助けておらず、みんなから軽蔑されていた人が本物であったというところに焦点があたっているのです。

それはなぜかを考えると、いつの時代にも悪い人というのは存在しているのであり、問題は被害者を助けるべき人々がその働きをしているかどうかというところにあるからです。
さて、わたしたちはどうでしょうか?

⑤善きサマリア人

なぜサマリア人は自分たちを差別するユダヤ人を助けたのでしょうか?
不思議に思いませんか?
ある人は「宗教なんか関係ない。博愛精神が一番大切なのだ。この物語はそれは証明している」と言うかもしれません。
しかしありのパパはそのようには考えません。
なぜなら世界の現状は単なる博愛主義がどれほど無力なものかを証しているからです。

ではなぜサマリア人はユダヤ人を助けたのでしょう。
ありのパパは次のように推測します。
それは彼も以前、盗賊に襲われたことがあったのではないでしょうか?
そしてその時に助けてくれたのがユダヤ人であったのかもしれません。

⑥強盗に襲われた人が善きサマリア人になる

もし、ありのパパの推測が正しければ、強盗に襲われた経験も只の災難ではなく、後々用いられるための貴重な経験であったということが出来ます。
ある人は「貴重な経験なんかしなくて結構です。安楽で静かな一生を送りたいのです」と言われるかもしれません。
どうぞご安心ください。
先程申し上げたように誰にでも試練や困難はやってきます。
それだったら逃げないでこっちから飛び込んだ方が得というものではないでしょうか?

◎平安と祝福を祈っています。

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