自我の磔殺とは何か?(その2)

2.カウンセリングと自我の磔殺

①アダルトチルドレンが自我の磔殺の教えに接すると、過敏に反応します。

ありのパパがそうでした(笑)。
なぜ過敏に反応するかを考えてみますと、小さいときから不全感に悩んでいましたので、完全になるという教えに飛びついてしまうのです。
問題は不全感を解消することではなく、不全感をもたざるを得ない環境にあるということに気づかないといけません。
しかし中々これは難しい問題です。
なぜなら心の中で常に「自分がもっとしっかりしていたら、こんなことにはならなかった」と言う呪いの言葉がグルグル回っているので、「自分が変われば全てが変わる」と本気で思い込んでいるのです。
今なら「あんたが変わっても、変わるのはあんただけ」と平気な顔をして言えます(笑)。

②カルト教会と自我の磔殺の教えの関係

カルト教会でおなじみなのが、悪霊追い出しです。
何でもかんでも、悪霊のせいにして、思考が麻痺するまで悪霊追い出しを会員にやらせます。
そうして心理学的な意味合いにおける自我が停止してしまった洗脳人間が出来上がるというわけです。

その次にカルト教会が利用するのが自我の磔殺の教えです。
会員が反抗的態度をとると「自我が死んでない」と言って、責めます。
自我が停止するまで、責め抜きます。
このような話をカルト被害者から聞くと、ありのパパなどはそのカルト教会の牧師に「自我が死んでないのはお前だ!」と言ってやりたい気持ちになります(笑)。

3.カウンセリング視点から見て、健全な自我の磔殺の教えとは?

①自分をありのままで受け入れる。

パウロはガラテヤ書の冒頭から「あぁ、愚かなガラテヤ人。あなたがたは霊で始めたのに、今になって肉によって救いを完成させようとするのか?」と激烈な言葉でガラテヤ教会の人々を非難しています。
霊で始めたとは、福音を信じることによって価なしに救われる道であり、肉によって完成させるとは、律法を守ることによって救いを自力で獲得しようとする道です。
人の目からは賢く見える律法を守る道というのは、結局は自分を叱咤激励して「ここまで出来たら合格、出来なかったから生きている資格なし」という自分をありのままに受け入れない生き方であるのです。
人にはこのような自力救済の欲求があります。
パウロはこのような欲求を十字架に付けたと言っているのです。

②人々をありのままに受け入れる。

ガラテヤ書を通してお読みになるならば、明らかなことですが、パウロはこの経験をしたことによって、人々を人間的な尺度で見ることを止めたと記しています。
これは現代流に言うならば、人々をありのままに受け入れるようになったということです。
「どんな道徳的な問題があっても、そんなことは関係ない。イエスが十字架で力強い救いを提供してくださったのだから。」
そうです。自分のありのままを受け入れ感謝して生きていく道を選び取った人は、隣人をもありのままに受け入れる生き方へと進んでいきます。

③ますます活発になり、人間的感情が豊かになる。

自我の磔殺を間違って理解した場合、自分が想像する自我が磔殺された人間を演じるようになります。
人は怒ったり、笑ったり、泣いたりする感情的存在ですが、感情を表に出すことに罪悪感を感じるようになります。
それで感情の表出が乏しい、マネキンのようなクリスチャンが出来上がることになります。
このように感情を抑圧する状態が長期間にわたって続くと、うつ病の温床となります。

聖書的な自我の磔殺の教えを正しく理解したクリスチャンは、自分をありのままに受け入れますので、どんな失敗も恐れません。
なぜなら自分の救いは自分の行いとは関係がないということを知っているからです。

◎自我の磔殺の教えは聖書の大切な教えの一つです。
お互いは真の聖書的理解とは何かを考え、求めていきたいものです。
祝福を祈っています。

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