自我の磔殺とは何か?(その1)

キリスト教の教えの中に、自我の磔殺(たくさつ)というのがあります。
この教えもまた、多く誤用されてきた歴史を持ちます。
各教派ごとに「自我の磔殺」の理解は異なります。
ですので神学的理解は各々が所属する教会の牧師に聞いていただくとして、今日はこの問題をカウンセリング視点から考えてみたいと思います。

1.自我とは何か?

自我とは何かという理解がまず第一に大切です。
そうしないと、各々が自分勝手に理解している「自我理解」を振り回して、結局何にも分からないままということになりかねません。

①心理学的理解

心理学で言う自我とは知性・感情・意志の総体です。
言ってみれば、私が私であることの前提ということになります。
もし、これを十字架に付けるということであるなら大変なことになります(笑)。
なぜならこれはロボットになるということを意味しているからです。
笑い話のような話ですが、若いときのありのパパは、このような理解をしていました。
それでどんな小さなことでも、祈って神の御心を仰いで決断しようとしました。
ある人は「何と、敬虔な!」と言われるかもしれません。
しかしそうではありません。
神は人に自由意志という賜物をお与えになりました。
ですから、神が与えたものを、無残にも投げ捨てるようなことがあってはなりません。
また、これはある意味ではカルト教会における盲従・隷従の状態であるかもしれません。

②日常生活における理解

普段の生活で、「あの人は我が強いね」と言うことがあります。
この場合の「我が強い」とは、独りよがりとか、他人のことを考えないとか、今流行りの言葉で言えば「自己中」ということです。
この理解であると、①の理解よりはまだ聖書の理解に近いと言えます。
しかしこの理解の致命的弱点は、我が強いとは誰が決めるのかというと、それは周りの人々が決めるところにあります。
例えば強い意志をもって、神に従おうとするとき、当然周りからは「あなたは我が強い」と言われるでしょう。
もし我が強くなければ、ノアは箱船を造ることが出来なかったでしょうし、ヨセフもポティファルの妻に言い寄られたとき、その誘いを断固として拒絶することはなかったでしょう。
聖書に登場する人物はみな、意志強固というよりは超ウルトラ頑固者と言われなればならないような人ばかりです。
もし、人の目を極端に恐れる日本社会で、我が強いということが聖化と結びつけて考えられるなら、クリスチャンはみな空気を読むしか取り柄がない臆病者になるほかはありません。

③聖書はいかなる意味で、自我の磔殺という言葉を使っているか?

聖書で自我の磔殺の教えを最も明確に記している個所はガラテヤ書の2章20節です。
この箇所を読むとき、ここだけを読まないで、ガラテヤ書の初めから終わりまでを通して読むことをお勧めします。
そうしないと、結局聖書を読んでいるように見えて、実は自分の思い込みを聖書に投影させているだけでしかないと言うことになる危険があるからです。

パウロは『私はキリスと共に十字架に付けられました』と言いました。
しかし十字架体験の後も、パウロは超ウルトラ頑固者でしたし、誰の指示にも従いませんでした。
ペテロやバルナバは、エルサレムからユダヤ人クリスチャンがやって来ると、異邦人との交わりから手を引きました。
どうしてかと言うと、空気を読んだからです。日本人みたいですね(笑)
しかしパウロは空気を読まない人でしたので、ペテロやバルナバを会衆の面前で激しく非難しました。

自我の磔殺を熱心に説く教会では、このようなパウロの行動をどのように理解しているのでしょう。
自我の磔殺を説いている第一人者が、この有り様なのです。

ここまでで賢明な読者の皆さんはお気づきになられたと思いますが、自我の磔殺の教えは聖書の元々の意味から離れたところで誤用されている最大のものであるということです。
では聖書が言っている自我の磔殺とは、どのようなものでしょうか?
(続く)

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