キリスト教を信じるのと、キリストを信じることは違うことか?

信仰的に純粋な人たちが良く口にすることに「キリスト教を信じるのと、キリストを信じるのとは違うこと」というのがあります。
今は霊性の神学の時代と言われています。
多くの人たちが、よりシンプルで霊的な信仰をもつために、既存のキリスト教会から離れています。

ありのパパの若いとき、ある女性信徒が目をうるうるさせながら「私の所属する教会はね、ありのパパさんの教会とは違って規模の大きさはないけれど、ただひたすらイエス様を信じる純粋な信仰なの」と言ったことがありました。
私はそれで「で?」
女性信徒「だから~」
私「あの~、それで世界宣教は一体誰がすんの?あなたがたは世界宣教の役目はあなたが軽蔑する教会に任せ、自分たちはうっとりしながらイエスをじっと見上げているつもり?」
これを書いていて思ったのですが、ありのパパは昔から意地が悪かったようです(爆)。

しかしこの女性信徒は聡明な方であり、目が点になりながらも(笑)「今言われて初めて気が付いた。そうだ、世界宣教はイエスの命令だった」と言ってくださり、お互いに微笑みあったのでした。

1.「キリストを信じる」という一点ばかりが強調されるとき、何が起きるか?

①キリスト信者が熱狂主義に陥りやすくなる。(主観主義)

熱狂主義と言う罪は最も大きな罪ですが、中々人には分かりにくい罪です。
なぜなら熱狂主義に陥ると、人の目には敬虔に見えるからです。
教会がキリスト教教理を軽視したとき、そのすきまから多くの熱狂主義が入って来ました。

②世に打ち勝つことが出来なくなる。(世俗主義)

書かれた御言葉に替わって、人の書いた書物が重視されたり、またフィーリングによって物事が決せられたりするようになります。
物分かりの良さが、神に従うことに取って代わられます。

③宣教の使命の放棄(静寂主義)

ワーシップソングを何時間も歌い、自分たちは霊的であると満足し、そうでない人々や教会を裁き、それで家路につきます。
彼らはいつイエスの命令である宣教の使命を果たすつもりなのでしょうか?
いや、初めからそんな気持ちは全然ないのかもしれません。

2.分離主義の問題。

①日本の教会からエクソダスしなければならないと唱えている人々がおられます。

この人々は自分たちもまた主の教会の一部であるとの自覚が致命的に欠けている人々です。
イエスが十字架で二元の壁を打ち崩してくださったのに、もう一度二元の壁を復活させようとするのが、エクソダスです。
実際に彼らがやっていることと言えば、他の教会から信徒を勧誘することです。
神が命じる宣教の使命の遂行よりは、他の教会を非難・攻撃することに、彼らが重きを置いているのは明白です。
しかし事実は同じ福音を信じる教会から教会への移動に過ぎないわけですから、これは茶番劇・絵空事でしかありません。

②彼らが書いたものを読むと、相変わらず聖書はちっとも出てきません。

代わりに出てくるのはウォッチマン・ニーを初めとする人間が書いた書物です。
彼らには様々な問題がありますが(カルト的であること。深刻な人権侵害が発生していること。聖書によらない主張をしていること。)、最も大きな問題は彼らが聖書そのものに立っていないと言うことです。
いつでも誰か他の、聖書を読んだ人が書いたものをありがたがって、「彼はこう言っている。あの人はこう言っている。」というところに止まって満足しています。

③心の傷を隠さず、正直になろう。

なぜ他の教会を偽りの教えに基づいて非難するかと言うと、そうしなければならないほどセルフイメージが低いからです。
エリート意識を持つのも、隠された自尊心が満たされていないからです。
彼らがここから脱出するために、神は二つのものを用意しておられます。
一つは、人間が書いた書物を捨て、聖書そのものに依り頼むことです。
二つは、偽りの強がりと傲慢さを捨てて、他の教会の人々に謙遜な気持ちで交わりの右の手を差し出すことです。
そうしたら必ず彼らも間違った教えから、抜け出すことが出来ます。

◎キリスト教とキリストを信じることは一つのことです。
これを分離してはなりません。

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コメント

  1. akane より:

    はじめまして。こちらはakaneと申します。
    以前は、聖書信仰に立ち、福音主義のバプテスト系の教会に通っていました。
    事情があって、今は、距離を置いています。

    ずっと前の事ですが、一時期、インターネットで、色々な教派に属する方々とやり取りをさせて頂いた事があり、すさまじい本音のぶつかり合いと言うか、当時の私にとっては、すごくショックで…とんでもない事でしたが、それがきっかけで、自分の信仰や属していた教会に問題があるのを知らされた一人です。
    中国や韓国との関係や、歴史認識をめぐって…色々な情報を集めていたのがきっかけで、ありのぱぱ様のサイトを拝見しまして、読ませて頂くようになりました。
    読んでいる内に、おや?と思うことがあって、コメントをどうぞ。という文字を見て、書かずにはいられない気持ちで一杯になりました。

    >「キリスト教を信じるのと、キリストを信じることは違うことか?」

    ありのぱぱさんが述べられている実例とはニュアンスが違うのかも知れませんが、個人的には、一度、教会によって、深く傷つけられると、キリスト教は信用できないという固定観念が出来てしまったのを味わっていて、教会から教わったものが、ほとんど空しいものになり、イエス様だけが、心の中に残っていた事もあって、キリスト教と、イエス様を切り離して、捉えるようになりました。

    言い方を変えれば、キリストを信じるとは、
    ・心の中に住まわれるイエス様への信仰。

    キリスト教を信じるとは、
    ・色々な教派や色々なクリスチャンが集まる共同体への信仰。
    ・支持する教派に属する牧師またはリーダーとクリスチャンが集まる共同体への信仰。

    なんていうか…例えば、私が属していた教派でしたら、福音主義またはバプテスト派を信仰するなり、教理and教派がアイデンティティになるような感じです。

    それだと、リーダーや属するクリスチャン達の顔色を窺うばかりで、派閥争い、他教派に対する侮蔑、集団からあぶれるのを恐れて(アイデンティティの喪失への恐れ)、保身に走ったり、神、キリスト、聖霊との関わりがはばかれたり、その人に最適な信仰生活を築くのが難しくなったり…という障害が起きるから。

    キリストを信じることによって、キリスト教全体が、各々の問題について、共に考えられるようになる…という風に捉えていたのでした。

    それが、私の勘違いでしたら、ご指摘をお願いいたします。

    • arinopapa より:

      こんにちは、akaneさん。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      akaneさんが仰ることについて、私もその通りであると考えています。
      ただ、現実の問題として、そのように言う人々の中にはカルトの人々が多くおられることを注意していなければならないと考え、この文章をアップしました。
      「儀式的な教会・熱狂的な教会から私は救われました」と言っている人の現在通っている教会が、以前よりもっと酷いカルト教会であるとするならば、これは悲劇です。

      よろしくご理解の程をお願いします。
      またコメントしてください。お待ちしています。

      • akane より:

        ありのパパ様
        ご返信ありがとうございます。理解いたしました。

        >「儀式的な教会・熱狂的な教会から私は救われました」と言っている人の
        >現在通っている教会が、以前よりもっと酷いカルト教会であるとするならば、これは悲劇です。

        本当に…。良い教会とは何? 悪い教会とは何? 考えてしまいます。
        一度、傷つくと、優しくしてくれる教会が、とても素晴らしい教会だと錯覚して、勘違いしてしまう…というのもあるんですね。

        教会選び と 教会を健全なものに。は、また違って来て…

        前者でしたら、注意すべき教会と安全な教会を見分ける方法を、後者となると、健全さには何が必要なのか。を考える事は出来ても、教会は、リーダーによって、大きく変わって来るので、私のような立場でしたら、前者のほうを選ぶ他ない心境です。

        でも、一つの教会だけの問題ではないと知ってからは、インターネットで、教会に対して、感じている事を率直に記しています。(どなたでもご自由に読めるように)
        そして、見分ける方法と問題について考える方法の両方を学ぶために、それぞれの教理や神学を調べている所です。

        私事ながら…

        個人的に、以前は、聖書を読んだだけで、フラッシュバックが起きて、御言葉をたてにして人を斬りつける恐怖心に襲われるのでした。
        もともと、聖書の通読が苦手なこともあって、尚更…。

        最近になって、聖書をちゃんと読めるようになって、御言葉が、力を与えて下さる喜びに戻る事が出来ました。
        実は、はじめて聖書を目にしたのは、教会ではなく、福祉施設で知り合って、親しくなったクリスチャンの家で…でした。

        その後、信仰生活の土台となる教会に通い始めてからだんだんと、心身ともにおかしくなっていきました。
        教会から脱して、回復するにつれて、その教会に問題があると知りました。

        すると、神さまが、良い教会を見つけて満足するのではなく、教会の問題について考えなさい。と仰せになりました。
        最初、聞いた時は、(ひぇぇぇ…嫌だなあ…)って気持ちでした(苦笑)。
        嫌がっている私に、一人のクリスチャンが、イエス様の中で生きる道を歩むことをすすめたのでした。

        その道をたどっている内に、イエス様の教えが、じわーっと、心に響いて来て、御霊の働きによって神さまの仰せになった意味を、やっと理解しました…。

        教会の回復を強く望まれていること…でした。

        • arinopapa より:

          こんにちは、akaneさん。
          コメントをありがとうございます。

          神様の御前における歩みが祝されますようにと祈ります。

          またコメントしてください。お待ちしています。