聖書読みの聖書知らずとは?

信徒向けの神学校に通っておられる方が、次のようなことをご自身のブログに書いておられました。
それはある教師は、聖書の原語に詳しく、解釈も綿密なのだが、適用という段になると途端に二元論的な偏った理解になって しまうということでした。
例を挙げると、「クリスチャンは救われて神の御霊の内住があるから神の支配下にあるが、未信者は悪魔の支配下にある。」
う~ん、何でこうなるのでしょうか(笑)。

①神がすべての人に与えておられる先行的恩寵

もしこの教師のように、クリスチャンは神の支配下にあり、未信者は悪魔の支配下にあるとするなら、「じゃ、先行的恩寵って何?」ということになります。
神から与えられた先行的恩寵とは、第一義的に良心です。
未信者が良心を働かせて、自分の無力を認め、神様なら自分を救うことが出来ると信じ、自分の意志と生き方を神の配慮に委ねる決心をするなら、神の支配下に移ることが出来ます。
ですから未信者が悪魔の支配下にあるといっても、悪魔の完全な支配下にあるわけではありません。
またクリスチャンにしても、初代教会において既に偽りの罪が信者を浸食していたのを見れば、神の完全な支配下にあるわけではないことが分かります。

②神がすべての人に与えておられる自由意志

この教師に決定的に欠けているのは、人間に与えられている自由意志を神学的理解の中に入れていないということです。
自由意志の存在を無視しては、人間は機械と同じ存在に成り果てます。
しかし事実はそうではなく、神はご自身に似せて人をお造りになられました。
「ご自身に似せて」とは、人間には自由意志があるということを指しています。

③神がすべての人に用意しておられる福音

イエスは十字架の上で救いを成就してくださいました。
その時、神殿の幕が真っ二つに裂けたのでした。
これは律法を守るなら救われるが、律法を守りきれないなら救われないという二元の壁を打ち破ったことの象徴的表現でした。
パウロは繰り返し、クリスチャンに対して、救われるべき努力を止めるべきことと、自分が努力なしに救われたのだから、他の人々を無条件に受け入れるべきことを説きました。
私たちはエルサレム教会のクリスチャン達が、救われたあとも、救われるための努力である律法を守るということを止めなかったことを、愚か者をさげすむように笑うことがあります。
しかしエルサレル教会の出来事は、本当に他人事でしょうか?
下手をすると今も、救われるための努力を続けていないでしょうか?
また自分は只(ただ)で救われたのに、人々にはあれこれ条件をつけて、「こうなれ。ああなれ。」と余計な重荷を背負わせていないでしょうか?

④一番大切なことは、生き方そのもの

たとえ聖書を原語で読めても、それだけでは何にもなりません。
一番大切なことは、パウロが言う通り、自分がただで救われたのだから、人々を条件をつけないで受け入れることです。
「いや、これとそれとは別の話だ。」と仰る方もおられるかもしれません。
しかしそうではありません。
聖書に詳しいと自称する者が、イエスが一つとしてくださったものを、再び二元の世界に分けてしまうようなことがあってはなりません。

⑤どうしたら聖書信仰と生き方が一致するでしょうか?

結局この問題の本質は、理屈は分かっても、その理屈通りに生きていけないというところにあります。
このことに残念ながらと言うべきか、ペンテコステ派も福音派もリベラル派も関係ありません。
極論すると、クリスチャンと未信者というちがいも関係ありません。
なぜなら理屈は分かっても、そのように生きていけないクリスチャンもいれば、理屈は分かっていないけれど、知らず知らずの内にそのような生き方を実践している未信者の方も多くおられるからです。
しかし聖書に、「多く知っている者は、多く要求される」とありますから、福音を知っているクリチスャンが福音に内在する一元的生き方を大胆に生きていく必要があることは当然のことです。

a.正直に生きる。
正直に生きる生き方とは、自分の無力を認める生き方のことです。
これを口先だけで告白するのではなく、具体的に適用することです。
クリスチャンが良く言うことに、「クリスチャンなんだから、これぐらい出来て当たり前」というのがあります。
無力を認めたと言うことが口先だけであり、本当はそんなことはちっとも思っていないと言うことがよく分かります(笑)。

b.本音で生きる。
自分の本音を抑圧して生きている間は、信仰と生き方が一致することはありません。
なぜなら聖書の世界は正直な世界であり、本音で生きようとしない者が存在しない世界であるからです。
そんな本音の信仰を建前で持つという、天才的アクロバットをしてはなりません。
本音で生きるって、気持ちいいですよ(笑)。

c.捨て身で生きる。
いつも余力を残す生き方は、少しもすっきりしない生き方です。
正直に生きて隠すものが何も無くなり、本音で生きて自由を得たなら、思い切って捨て身で生きてみることです。
捨て身で生きるとは、問題から遠ざかるのではなく、問題に飛び込む生き方です。
そうしたら問題は解決します。(そうなると信じれないときは、飛び込んではいけません(笑))

◎今日は日曜日。聖日礼拝の日です。
こんなことをつらつらと思いながら、礼拝を献げてみるのも良いのではないでしょうか。

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