死んでいたのが生き返り

ありのパパが子供のとき、「お通夜の最中にお棺の蓋がガタガタ鳴り出して、恐る恐る蓋を開けてみると、死んだはずの人が生き返っていた」という、お話がまことしやかにされていました。
その話の信憑性を高めるための補強として「昔は医学が未発達で、死んでいるのと眠っているのとの区別がつかなかった」と言うような説明がされていました。
多分、この話は作り話ではないかと思うのですが、一見死んだかに見える人が蘇生するというのはあり得ることです。
今日は皆さんとご一緒に、ヨハネ福音書11章の「ラザロの生き返り」を通して、死人の生き返りということを考えてみたいと思います。

1.死者を生き返らすのは、神の主権の内にあること。

①病気を治すことや、死なないようにすることは、人間にも可能です。

しかし一度死んだ人を生き返らせることは、神でなければ出来ないことです。
ラザロは生き返ったのは死んでから4日目でした。
既に死体の腐乱が始まっておりましたし、四日の間、脳に酸素が供給されていませんでしたから、たとえ生き返っても脳障害を被っているはずでした。
しかし聖書にはラザロは生き返ったあと、通常の社会生活を送ったことが記されています。
このことから明らかなことは、これは単なる蘇生ではなく、神の奇蹟によるということです。

②生き返りと復活はちがいます。

聖書が言う復活とは、再臨のイエスによって救いが完成され、栄化された体が与えられることを指しています。
生き帰りそのものは素晴らしいことですが、それでもまた死にます。
病が癒されても、いつかは死ななければなりません。
ここが復活と、生き帰りや他の奇蹟とちがうところです。

(反キリストが現れると、その者は死人を生き返らす奇跡を行うと聖書に預言されていますから、これからの時代において、もし誰かが死人を生き返らすことをもってキリストであるという主張をするなら、その者こそが反キリストであるということになります。)

2.教えに同意することと、信仰によって一歩を踏み出すことのちがい。

①『この病気は死で終わってしまうようなものではなく、神の栄光が現されるためのものです。』

ここでもイエスは私たちに病気を否定的に受け取るのではなく、神の栄光が現されるための道具であると言っておられます。
ありのパパなどは本音のところで「奇蹟はいりませんから、病気にだけはしないでください」と思ってしまうような不信仰者です。
しかし長い人生において病気や試練が襲ってこないと考える方がどうかしているとも思います。
もしそれらが不可避のものであるなら、積極的・肯定的に受け止めていきたいものです。

②『ラザロは眠っています』『ラザロは死にました』

あろうことか、イエスは死んだラザロを眠っていると言われました。
弟子たちは、何と真に受けてしまいます。
ここのやりとりは、何か関西漫才でも聞いているようです(笑)。
それでイエスは今度ははっきりと「ラザロは死にました」と言われました。
この所における真意は、イエスにとって「死は敵ではない」ということでした。

③『私はこの世の終わりの復活のときに、そうなることは存じています』(現代訳聖書)

マルタもマリヤも、イエスが救い主であることをこの時点で既に信じていました。
これだけでも素晴らしいことですが、もう一歩を踏み出すことをイエス様によって期待されました。
どんな素晴らしい信仰理解であっても、ただそれだけでは現実の問題を解決することは出来ません。

3.『もしあなたが信じるなら、神様の驚くべき奇蹟を見ることができると言ったではありませんか』(現代訳聖書)

①死なせないでおくことと、死人を生き返らすことのちがい

「生と死」の間に、人々は線を引きます。
そしてその線から向こうは、人間の力の及ばない領域であると考えます。
これは一見もっともであると思えることですが、実はそうではありません。
このように考えていく限り、神の奇跡的な力が私たちの人生に及ぶことはありません。
信仰を人間の領域だけではなく、神が支配しておられると考えられる領域にまで、信仰のウィングを拡げることが必要です。

②私たちが抱えている問題の内、絶体絶命の問題が解決されることを信じてみては如何でしょうか?

ありのパパは日本一千万人救霊運動が失敗に終わったと思える今でも四千万人の人々が2055年までに救われることを信じています。
皆さんの中で、一線を超えてしまった問題と言うものがないでしょうか。
そうしたら、その問題をイエスの所に持っていくことです。
イエス様が栄光を現してくださいます。

③悪魔に対する憤りと、人々の悲しみに深く共感すること。

単なる奇蹟フリークと、イエス様の違いは何でしょうか?
その違いは動機にあります。
聖書の中で最も短い節であると言われる個所は35節の『イエスは涙を流された』です。
イエスは、ラザロが亡くなったことを悲しんでいる人々を見て、彼らを深く憐れまれました。
またアダムの堕落以後、人類の中に入ってきた死がサタンによるものであることをご存じのイエス様は、サタンに対して強い憤りを覚えられました。
このようにイエスの心の内にあったのは、憐れみと義憤でした。
現代に生きる私たちクリスチャンに、憐れみと義憤はあるでしょうか?
テレビニュースで大災害の報道があっても、心を痛めて祈ることをせず、社会的不正義を報道するニュースがあっても三流の評論家のように訳知り顔をするだけであってはなりません。

◎神様は今も私たちに「お前はわたしは信じるか?もし信じるなら、あなたは神の奇蹟を見ることになる」と言われます。
神様のチャレンジに答える者とさせていただきましょう。

“死んでいたのが生き返り” への2件の返信

  1. ありのパパさん、おはようございます。

    40年後にクリスチャンが40000000人!?
    確か2013年の礼拝出席数が280000人弱…。
    神様の恵みと政府対応が目一杯効を奏した(人口減少に歯止めが掛かった)として、40年後に日本の人口は100000000人弱で、日本国民の40%強がキリスト者になる勘定です。そうなったら素晴らしいですね♪。

    あっ、でも被害拡大を防ぐためにも、異端とカルト化した教会を根絶やしにせねば(一人で何力んでんだ、身の程を知れ←自分ツッコミ)

  2. こんにちは、マッキーさん。
    コメントをありがとうございます。

    私は今でも神様が2045年までに人口の三分の一をキリスト者にしてくださるようにと祈り願い、そして信じています。
    四千万人と書いたのは人口が一億二千万人というのが前提でした。
    人口が九千万人になっているのであれば三千万人のキリスト者ということになります。

    私の視点からと言うと12ステップを実践するキリスト者ということになりますね。

    あと半日、お仕事にお励みください。
    平安と祝福を祈っています。

    またコメントしてください。お待ちしています。

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