人を信頼できないのはなぜか?

韓国からおいでになられた婦人宣教師が説教の中で良く言われていたことがあります。
それは「信じて良いのは神様だけ。人を信じると裏切られる。人は愛するものだ。」ということです。
その時は「なるほど」と思いました。
しかしよく考えてみると、愛するという行為の中には信じるということが含まれているのではないでしょうか。
もし誰かがありのパパに「私はあなたを愛しているが、信じてはいない」と言ったとしたら、その人との信頼関係は成立しません。
(相手の支配欲求に屈して、相手の言いなりになることは、信頼するという行為の中に含まれていません。)
今思うと、この婦人宣教師は日本人信徒に裏切られ、教会を追い出されるという経験を以前にしていましたので、それが心の傷になっていたのだと思います。

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1.相手を信じることが出来ないと、人間関係は成立しない。

①アダルトチルドレンは元々、人を信頼するのが苦手です。

二つ理由があります。
一つは養育者がなすべき当然の養育さえ実行しなかったので、他人に対して根源的な不信感を持っています。
この根源的な不信感は養育者にのみ限定されるべきものなのですが、人の心というものはそんなに単純に出来ていません。
信じて甘えて当然であるはずの養育者からさえ、願っていることが日常的に与えられなかったので、どうしてもその経験を他人に投影させてしまうのです。

②もう一つは、人を信頼する練習が不十分であるということです。

元々信頼することが不得意ですから、あえて自分から練習しようとしません。
その間にも、人を信頼することが当たり前である人々は、なおなお信頼する練習を積み上げていきます。
その中で人に裏切られる経験をして、どんな人を信頼すれば良いのか、どんな場合に信頼することはリスクを伴うのかなどを体験的に習得していきます。

信頼するのが苦手な人々は練習から逃げていますから、いざ人を信頼しなければならない場面に遭遇すると、その相手が信頼して良いのか悪いのかを判別する術を持っていないため、容易に騙されます。

③ありのパパは、どうしているかと言うと、緊急の判断を迫られるような場合ですと、大体間違った判断をしてしまいます(笑)。

それで相手が今すぐに判断を迫るようなときは、判断をすることを拒否します。
まぁ、要するに逃げるわけですが(笑)、これで大失敗から免れることが出来るようになりました。
緊張で頭真っ白の場面から逃れて、神様のもとに行くと、いかに経験不足のありのパパであったとしても、間違うことのない御方が、正しい判断を示してくださいます。
その示された判断をもって、のこのこと再び出かけて行って勝負します(笑)。
そうすると不思議に勝利することが出来ます。
どうぞ皆さんも、お試しになってください(笑)。

2.健全な信頼関係を築くにはどうしたら良いか?

①無条件であるべきこと。

無条件とは、信頼するのに条件をつけないことです。
私たちが良くやることに「ここまで出来たら良い、出来なかったら不合格」というのがあります。
ありのパパなども、何か心が苦しいと感じるときは、大体この古いテープレコーダーが頭の中でグルグルと回っているときです。
また、人様にこれをやるときもあります。
相手が反論できないように論理的に主張するのですから、始末が悪いです。
これをやっている限り、人間関係がうまく行くことはありません。

②無制限ではないこと。

無制限とは、相手が何をしても我慢して受け入れることです。
これは愛とは何の関係もありません。
むしろ本当の愛は、無制限であることを積極的に拒否するものです。
中には相手を失うことを恐れる余り、受け入れてはならないものを受け入れてしまう方もおられます。

③自己受容と他者受容に励むこと。

こんなことを読まれていると、皆さんはお腹の中で「人を信頼するって、大変だな~」と思ってしまいますよね。
でも大丈夫。そんなことはないのです。
なぜなら、自分自身を信頼している分しか、人を信頼できないのです。
ですから、人を信頼しようとするなら、まず自分自身を信頼することを練習することです。
それなしに人を信頼しようとしても、それは演じているのに過ぎませんし、結局いつかは破綻してしまいます。
ある奥様が「主人を受容しようと努力するのですが、結局爆発してしまうんですよね」と正直に語ってくださいました。
その通りです。
もう自分を抑圧して、人を受容するのは止めた方が良いです。

3.一歩一歩成長していくために必要なこと。

①境界線を定めること。

「わたしはわたしであり、そして、あなたはあなたである」
これがあるべき人間関係です。
ここには拒絶もありませんし、支配関係もありませんし、依存関係もありません。
時々、お話を聞いていると「この方はパートナーとの間に境界線がなく、依存的一体感が強いな」と思わされるときがあります。
別々の存在であるお互いが線路のように同じ方向を向いているのが、夫婦です。
それが片方の線路がもう片方に「私と同じようになれ」と言ってもうまく行くはずはありません。

②寂しさを神の愛以外で埋めようとしないこと。

心が満たされていないと、神以外のものを不健全な方法で自分のものにしようとする力が強く働きます。

③自分を赦し、人を赦すことを学んでいくこと。

受容の根っこにあるのが、赦すことです。
ここでもやっぱり自分を赦している分しか、人を赦すことが出来ません。
人を赦そうとあがくよりも、自分自身を赦すことに精を出す方が、結局早道ですし、またそれが王道というものです。

◎健全な信頼関係を持つ人生こそ、満足できる人生の基礎となるものです。
お互いに、この道を励もうではありませんか。

コメント

  1. かたまり より:

    ありのパパさん都度お世話になります。
    かたまりです。
    私も人を信頼するのがとても苦手で日常人間関係に困難を覚えているのですが、3の成長に必要なことに書かれている、寂しさを神の愛以外で埋めようとしないこと、とありますが、では神の愛で埋めるというのは具体的にどのようなことを示しておられますか?
    たとえば聖書を読んだり祈ったり、賛美を聞いたり歌ったりということですか?

    • arinopapa より:

      こんばんは、かたまりさん。
      コメントをありがとうございます。

      私が理解する「神の愛以外」とは文字通り神の愛以外の全てを含んでいます。
      たとえば神の愛の替わりに賛美でもって自分の心を満たそうとするなら、賛美依存症になりますし、聖書研究に依存するなら、やはり聖書依存症になりえると考えます。

      「具体的にどのようなことをしているか?」というご質問ですが、具体的には何もしていません。
      只々、自分の存在のコアの部分において「ありのままで神に愛されている」ということを実感する以外にありません。
      何かをすることによってではなく、神と共に人生を生きることによって、段々とコアの部分が満たされ、成長していくもののようです。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. かたまり より:

    ありのパパさんありがとうございます。
    私はどうもなんらかの正しいとされる行動(ここでは聖書を読んだり賛美したり祈ったり)によって心の充足を満たそう、義になろうとする考えが強いようです。
    「自分の存在のコアの部分において「ありのままで神に愛されている」ということを実感する以外にありません。」
    神と共に人生を生きる、日々の生活なのですね、少しほっとしました。

    • arinopapa より:

      おはようございます、かたまりさん。
      コメントをありがとうございます。

      そうですね。神様は私たちが何らかの固着した行動をとっている限り、応答することがお出来にならないようです。
      なぜなら、その時点で応答してくださると、私たちの側ではその依存行動が正しいものと間違って認識されてしまいますから。
      「これをやってみたがダメだった。あれもやってみたがダメだった」という諦めがどこかでないと神の応答を期待しても期待外れに終わると思います。
      これが「裸になる」ということかもしれません。

      共に、ありのまま人生を生きたいものです。
      またコメントしてください。お待ちしています。