煉獄と万人救済とセカンドチャンス

カトリックとプロテスタント・リベラル派と福音派で共通する点があると言えば何でしょうか?
それは死後の救いについての教えです。
しかし異なる点もあります。
それはカトリックには煉獄という都合のよい教えがあり、リベラル派には万人救済主義という博愛主義の教えがあり、福音派にはセカンドチャンス論という新手の教えが登場しました。
そこで今日は皆さんとご一緒に、この死後の救いについての教えを考えてみたいと思います。

スポンサーリンク

1.そのどれもが聖書が教えていないことを教えている

①煉獄

カトリック教会は煉獄の教えを聖書の記述から類推できるものであると言っています。
しかし聖書をまともに読む限りにおいて、煉獄の教えなどは決して出てくるものではありません。
カトリック教会は人が救われるのは、信仰と行いによると教えます。
しかし救われるために行いが必要であると教えている限り、人が救われることは決してありません。
その欠陥のある教えを補強するのが、煉獄の教えであると言えます。
もし信仰によって、行いによらず恵みによって救われるのであれば、初めから煉獄などは必要ないのです。

②万人救済主義

この論を主張する人たちは、聖書全体は「神は愛である」ということを語っており、万人救済主義はこの「神の愛」と整合性があるといいます。
果してそうでしょうか?
万人救済主義を肯定するためには、聖書の中に具体的に書かれてある御言葉を否定しなければならなくなります。
要するに聖書の教えの総論には賛成するが、具体的に書かれている各論には反対するということになります。

問題は、万人救済主義の立場に立たないと、神は愛であるということを否定することになるかということです。
決して、そんなことはないと思います。
具体的に書かれている聖書の言葉を曲解しなくても、神が愛であるということを証明することが出来ます。
(歴史的キリスト教の立場に立つ教会が、未信者の死後の問題に対して、とても愛があるとは言えない態度を取り、それが人々を傷つけたという歴史の事実をも忘れてはならないと考えます。)

③セカンドチャンス論

この論の主唱者は、興味深いことに聖書信仰の立場から、煉獄の教えや万人救済主義を否定しています。
しかし残念ながらご自分の主張も聖書を文脈にしたがって解釈しているとは言い難いものです。
論拠聖句としてあげられている個所を見ると、その聖句が元々言っていないことを無理やりに付与しています。
聖書解釈の原則は、聖書が言わんとしていることを読み取ることですが、この方の場合は元々主張したい論があり(この場合はセカンドチャンス論)、御言葉を後付けで持ってきているのに過ぎません。
この方の聖書解釈の特徴は、聖書が否定しないから、その否定しないことは肯定されているという考え方です。
こんな馬鹿な解釈の仕方はありません。
そんな解釈が許されるのであれば、どんな教えでも作り出すことが可能となってしまいます。

2.神の御前での人間の人格的応答の機会を奪う

①危機的状況が人に決断を迫る

人間というものは、その時にならないと真剣に考慮することをなかなかしないものです。
また分かっていながらも、その時にならないと決断できないものです。
自分を見てもそうですし、会社などの組織、大きくは国家的な決断ということにも、それが言えると思います。

②個人における危機的状況とは一体なにか?

それは貧困や病気、人間関係の問題などがあげられますが、一番大きいのはやはり死の問題でしょう。
死が人間に立ちはだかっているから、人は真剣に人生の意義を考えるのです。
これが「死後の問題は既に解決されているから、何も心配いらないよ」ということであれば、人々は死後の問題を真剣に考えることをするでしょうか。
決して、しないと思います。

3.単なる宗教の人集めに過ぎないものに宣教を変質させてしまう

①教会がこの世の組織と違うところはどんなところか?

それは教会は永遠の命を与える福音を宣べ伝えているということです。
死後に、もう一度選ぶチャンスがあったり、既に救われているのだとしたら、福音の宣教はどのような意味合いを持つものとなるのでしょうか。
教会にとっての宣教は、デパートが商品の売り上げのために人々を寄せ集めるのと、本質的には変わらないものとなってしまいます。
要するに来たいなら来れば良いし、来たくないなら来なければ良いという類のものです。
これは信教の自由の原則という視点からは正しい理解です。
しかし福音を宣べ伝える責任がある教会が採用するべき理解ではありません。

②『聖霊もまた共に働いてくださり、宣教の言葉を確かなものにしてくださった』(聖書の言葉)

教会が福音を必死的に宣べ伝えるのと、「信じてもいいし、信じなくても構わない」という気持ちで福音を宣べ伝えるのとは、同じことでしょうか。
いいえ、全く違う結果を生みだすと思います。
また「どっちでも良いよ」という態度の福音宣教に聖霊のお働きが伴うと考えることは出来ません。

◎黙示録の最後の部分には「この聖書に余分なものを書き加えることも、また省くことも決して赦されない。そのようなことをする者には呪いが下る。」とあります。
煉獄も、万人救済論も、セカンドチャンス論も、これはみな人が作り出したものであるという点で、聖書に余分なものを書き加えることです。

ありのパパが心から申し上げたいことは「そんなことをしなくても、聖書を正しく理解することによって、神が愛であることを体験することは可能です」ということです。
共に聖書を誤りのない神の言葉と信じる信仰、歴史的キリスト教の立場に立って歩もうではありませんか。

コメント

  1. ひろき より:

    ひろきです。読ませていただきました。
    おっしゃる事はわかります。ただ、そうすると、周りのノンクリスチャンの人が地獄に行く事になるので、とても受け入れ難いです。それと神様は全知全能なので、信じない人も救う事ができるはずです。
    その辺の所はどう思いますか?

    • arinopapa より:

      ひろきさん、こんにちは。
      コメントしてくださり、ありがとうございます。

      「周りのノンクリスチャンの人が地獄に行くことになるので」と言われますが、でもね、そのためにひろきさんが、その所に置かれているのではないでしょうか?
      あなたを通して、イエスの十字架という救いの道が明らかになるのです。
      どうぞ、未信者の救いと滅びという問題と、ご自分の信仰をリンクさせてみてください。
      『宣教の愚かを通して、人を救おうと神はお定めになった』とは、このような意味です。

      ひろきさんが、他の宗教のように教えを宣べ伝えることによって、福音を明らかにしようとするなら、幕は閉じたままでしょう。
      しかし人々をありのままに受け入れることによって、神の愛を伝えるなら、必ず伝道の扉は開かれると信じます。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  2. より:

    ありのパパさん。こんにちは。
    実は、カトリックでは1962年から1965年までの第2バチカン公会議以来、煉獄はあまり言わなくなりました。
    カール・ラーナーの無名のキリスト者という考えが、広まったからです。
    最も、無名のキリスト者というものも公教要理(カテキズム)には、可能性として言及しているだけで断言はしていません。
    今は煉獄の存在は信じても信じなくてもいい事になっておりまた神父様は煉獄についてはあまり言及しません。
    なお公会議以前は「教会の外に救いなし」としてました。
    この点については、実質的にカトリックがプロテスタントに折れたと言われてます。
    なお、マザー・テレサは、煉獄の存在を信じて、貧しい人に奉仕していたようです。
    正教では、ハデスでのキリストの宣教がイコン(聖画)にあるように、セカンドチャンスを当然の理としてます。
    そしてセカンドチャンスがあるので、煉獄は必要ないとし、煉獄の存在をおきません。
    某氏の聖書的セカンドチャンス論は正教のパクリです。
    また、セカンドチャンスは東神大の元総長熊沢氏もセカンドチャンスを主張してます。
    私も、セカンドチャンスを断言するのはどうかと思いますが、異端だと言うのも言い過ぎだと思われます。

    • arinopapa より:

      仲さん、こんにちは。
      コメントをありがとうございます。

      煉獄の教理の根幹には、救いは恵みと律法によるのか、それとも恵みのみによるのかという問題があります。
      恵みだけでは救われることが出来ないと考えている限り、人は絶対に救われることが出来ません。
      なぜなら人間は徹底的に無力であり、自力では救いに到達し得ない存在であるからです。
      人間は堕落した存在であり、救いの要件に善き行い(善行)を入れてしまうと、その時点で救いの確信が無くなってしまいます。
      それでどうにかして救いの確信を得たいが為に「煉獄」や「セカンドチャンス」などの教えが出てくるというわけです。

      ですから真の問題は律法主義ということになります。
      律法主義とは、行いによって救われることが出来ると信じる信仰を指しています。
      人が救われるのは恵みと善行によると教えるのは、この律法主義の亜種であるということが出来ます。

      信仰者が恵みによってのみ救われることが出来ると信じるなら、煉獄などの教えが登場する余地はありません。
      プロテスタント・リベラル派における万人救済主義にしても、同様な背景があります。

      パウロは恵みによって救われるという教えが改変されそうになったとき躊躇なく反撃しました。
      それは人が救われることが出来るかどうかという生命的に重要な問題だったからです。

      様々な時代の風に惑わされず、聖書の教えに忠実に従うものでありたいと願っています。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  3. より:

    返信ありがとうございます。
    私は救いの確信は持つべきではないと思います。
    何故なら、救いの確信を持ってしまうと目的を達してしまい、善行を積まなくなるからです。
    ルターの誤りはそこにあったわけです。
    プロテスタントは、主観的な信仰を重視しますが、カトリックは客観的な信仰を重視します。
    主観的な信仰を持たなくてもご聖体を拝領すれば、救いにあずかれるとしてます。
    正教ではさらに徹底して完全に行為による義認です。
    その為か、伝道にはあまり熱心ではありません。
    もっともプロテスタントでも改革派になると予定説で、また違った事になるかと思われます。
    聖書だけを読めば、予定説が一番正しいかと思われますが。

    • arinopapa より:

      仲さん、こんばんは。
      コメントをありがとうございます。

      ○救いの確信は、救われた後の聖霊による回復と成長の御業の根拠・原動力となるものです。
      救われたということは、終着点ではなく出発点です。
      人生は救われるためにあるのではなく、救われて神の栄光を現すために備えられてあるものです。

      ○救われるために善行を積むというのは、結局のところ律法によって救いに到達するという律法主義と変わるところがありません。
      イエスは律法による救いを廃棄し、恵みによる一方的な救いを成就してくださいました。

      ○そういうわけで、救われるために積む善行と、救われた後に神の栄光を現すために神が備えておられる善き行いは全然別のものです。
      片方は努力の賜物であり、もう片方は喜びと感謝の賜物です。

      またコメントしてください。お待ちしています。