人間的な教会成長から聖書に忠実なリバイバルと御国の拡大へ!

ありのパパがクリスチャンとさせていただいたのは少年時代でした。
その時から教会が言っていることを全て真理であるとして受け入れてきました。

しかし信仰の年限が増えてくるに従って、信じている事柄相互の関係において矛盾があることを理解するようになってきました。
どういうことかと言いますと、リバイバルと教会成長の関係について、また教会の拡大と御国の拡大の関係について、相互に矛盾したことを信じている自分に気が付いたということです。

皆さんとご一緒に、これらの問題を考えます。

1.リバイバルとは?

①一般的に捉えられているリバイバルとは?

皆さんはリバイバルと言うと、どんなものをイメージなさるでしょうか?
ありのパパは、天から聖霊の火が降ってきて一瞬のうちに皆が聖霊に満たされ、その状態で御言葉を語ると、聞いた未信者は心を刺され、イエスを信じる信仰をもつに至るというイメージを持っていました。
使徒の働きを読むと、そのような理解が間違ってはいないことが分かります。

教会はリバイバルを求める祈りを献げつつ伝道の働きを行います。
ありのパパは心の中では「聖霊の働きがなければ伝道の働きが実を結ぶことはないのだから、こんなことをしている暇があったら聖霊降臨を求めて祈った方が良いのではないか?」と心のどこかで思っていました。

この考えを一度所属する教会の長老さんに聞いてもらったことがありました。
その時、その長老さんは「リバイバルがあるなしにかかわらず、伝道はイエスの命令であるから、伝道をしなければならないのです」とお答えになりました。
その聖書に忠実な考えに、なるほどと感心したものでした。
しかし心のどこかでは、もっと聖書の教えの全体を包み込む理解があるのではないかとも感じていました。

②聖書が教えるリバイバルとは?

使徒の働きを見ると、聖霊を受けた後に明かな変化が二つあります。

一つは異言を語り始めたということです。

もう一つは聖霊に満たされた後、様々な階層の人々を一緒くたに扱うようになったということです。

一度目の聖霊のバプテスマのときは、ユダヤ人の中にある律法によって人々を二つに分ける境界線が取っ払われました。

四度目の聖霊のバプテスマのときは、ユダヤ人と異邦人の間にある人種的偏見という境界線が取っ払われました。

ここから導き出せる理解は、教会が困難にぶつかるたびごとに、神は聖霊のバプテスマを送って教会にその困難を乗り越えさせたということです。

③聖霊のバプテスマの聖書的理解とは?

聖書が教える聖霊のバプテスマの理解は、現代の教会が理解しているような人々の救霊のための便利な道具としての聖霊のバプテスマの理解を超えたものがあります。

果たして現代教会は聖霊のバプテスマを受けたとき、自分自身が変わらなければならなくなるのを受け入れることが出来るでしょうか?

ありのパパには、その覚悟もなしに只の掛け声倒れに終わっているように見えます。
案外、受けたときに変化する覚悟がないことが、求めても与えられない本当の理由であるのかもしれません。

2.教会成長とは?

①教会成長学のこと

教会成長論が教える教会成長とは、多くの人々が教会にやってくる以上のことではありませんでした。

彼らは、教会教育によって人々をクリスチャンらしくすることが可能であると言いました。
しかし福音派教会は伝統的に教育によっては人々を救いに導くことは出来ないと考えてきました。
人々が救われるために必要なのは認罪ですが、聖霊の先行的恩寵がなければ認罪を持つことが出来ないからです。

救われていない人ばかりの教会になったとき、教会に不祥事が多発するのではないかと危惧しました。
しかし教会の不祥事が信徒たちからではなく、牧師たちから起きてきたことは皆さんがご承知の通りです。

これの真の理由は、この教えが単に人集めの商売に過ぎないことを知った上で採用した時点で、その牧師は神の導きに背いていたのではないかということです。
『聖霊に反逆する罪は赦されることがない』と聖書にある通りです。

②聖書が教える教会の成長とは?

使徒の働きは、段落の区切りごとに同じような言葉が書かれています。
それは『教会は聖霊に満たされ励まされたので、各地に渡って強くなっていき、次第に信者の数が増えていった』という文言です。
ここから読み取れるのは、教会と聖霊の関係が密接であるとき、教会の数的成長も伴っているということです。

③現代の教会が行う伝道以外の事業について

現代の教会は人々がキリストに触れる機会を提供するために様々な社会事業を行います。
これは教会の側から見ると至極もっともなことなのですが、未信者の側から見ると受け入れることが難しい理屈であると言わなければなりません。

教会と社会のトラブルを見ると、社会事業に見せかけて伝道をしようとしているところに起きているように見えます。
これは聖書にはないことです。
ありのパパの個人的意見ですが、教会は伝道と社会事業をはっきり分けるときが来ているのではないかと考えます。
皆さんは如何お考えでしょうか?

3.聖書が教える御国の拡大とは?

主の祈りの中に『御国が来ますように』との祈りがあります。
これは直接的にはイエスの再臨によってもたらされる神の国を指しています。

それに加えて、もう一つの意味があります。
『御国が来ますように』とクリスチャンが日々祈るとき、それは自分を通して御国が拡大しますようにとの願いにつながっていきます。
自分は座り込んで『御国が来ますように』と祈るだけなら、それは異教徒と変わりません。

御国の拡大とは、まず第一に自分の心の内にある神の御支配なさる領域が拡大するということです。

第二に自分の伝道を通してイエスを信じる人が増え拡がることによって御国が拡大するということです。

リバイバルと教会の成長と御国の拡大が矛盾なく一つのものとなったとき、著しい神の働きが地上にもたらされるものと信じます。

◎平安と祝福を祈っています。

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