律法主義と律法廃棄主義の間違いを避けて、正しい道を行こう!

ありのパパが明確な救いの確信を得、聖霊のバプテスマの経験にあずかったとき、不思議な感情が襲ってきました。
それは、もう求めるものが無くなり、空虚感に襲われたのでした。
あたかも大学に入学した途端、無気力に襲われる大学生のようでした。

ありのパパが求めていたのは確信という名の宗教体験と、喜びという名の感情でした。
これでは空虚感が襲ってくるのも当然と言わなければなりません。

なぜ、こんなことになってしまったのでしょうか?
それはクリスチャンになったあとで実践するべき行いがあることを知らなかったからです。

『救いは行いによるのではなく、恵みによる』と教えられてはいましたが、救われた後になすべき行いがあることは知りませんでした。
いえ、知るには知っていたのですが、正しく理解していませんでした。
良き行いによって救われるわけではないが、救われた後は良き行いに励む必要があると教えられました。
心の中では「救われるために信じて、そして救われたのに、なぜ良い行いに励む必要があるのだろうか?」と訝(いぶか)りつつ、しかし聖書を読むとそのように書いていましたので納得したふりをしていました。

        

1.聖書が教える「良き行い」とは、どのような行いか?

自分が積んだ良い行いによってではなく、イエスが私の罪のために十字架に掛かって死んでくださったという神の一方的な恵みによって私たちは救われました。

これは言葉を変えて言うと、自分では滅びから救いに移ることが出来ず、キリストが滅びと救いという二元の壁を打ち壊してくださり、救いに入れてくださったということです。

ですから今度は周りの人々を良い人と悪い人という二元的な世界観で区別することを止めて、「みんな良い人」という一元的な理解によって受け入れ愛していく生き方を実践することが神によって期待されています。

ですから決して救われた後に行いが必要ないということはないのです。
かえって大ありのこんこんちきです(笑)。

        

2.人々をありのままで受け入れるのは、やりがいのある仕事

①この仕事は生まれつきのままでは決して出来ない

自分自身がありのままで受け入れられて育てられていませんから、頭では「ありのまま」が分かっても、では実際にどうすれば良いかということになると、チンプンカンプンです。

まず自分自身にはそれを行う力がないのを認めることが大切です。
この場合「出来ると信じる」ことは徒労に終わります。
神が願っておられるのは、出来ると信じて我力(がりき)で奮闘することではなく、自らの無力を認めることです。

②神になら私を助けることが出来ると信じる

ありのパパを含めた多くのクリスチャンは無力を認める芝居をします。
そして何食わぬ顔をして、②の段階にうつり、神の助けを求めます。
求めますが、実はお腹の中は万能感で一杯なので、いくら祈っても神の助けはやってきません。
そこで「ああだ、こうだ」の理屈が始まるのですが、人間がいくら屁理屈を言っても何も変わりません。
ただ本当に自分の無力を認めることです。
そうしてから神を信じるなら、神の助けは必ずやってきます。

③自分の意志と生き方を、神の御心に従わせる決心

神を知らない養育者に育てられた私たちは、否定的な生育歴を多く持っています。
この生育歴が予測不可能な突発的で破壊的な影響を私たちに与えます。

この問題の鍵は、心の目を見開いて現実を直視し、心の耳を澄ませて神の御声を聞くことです。
そうしたら、その時々に「何が問題なのか?」「問題の核心はどこにあるのか?」が分かるようになります。
と偉そうなことを書きながら、ありのパパもこの点で多く失敗をする者です。

        

3.行いは重要ではないという教えの危険性

①律法廃棄主義とは何か?

ある人々は「行いによらず恵みによる救い」ということを強調しようとして、救われた後の行いは重要ではないと教えます。

これを律法廃棄主義(りっぽうはいきしゅぎ)と言います。
しかし今まで見てきたように、これは正しい主張ではありません。
クリスチャンには救われた後になすべき行いが用意されており、それは大変重要なものです。

②「行いは重要ではない」という教えは教会歴史の中に繰り返し現れ、教会を傷つけ苦しめた

パウロはガラテヤ書で一端救われたクリスチャンがもう一度[律法による救い]に戻っていくのを見て、[恵みによって救われる]という教えを繰り返しました。

その一方でパウロはエペソ書などでクリスチャンのなすべき行いについて詳しく述べております。

教会の戦いは律法主義と律法廃棄主義の二つの異端との戦いであったと言っても良いほどです。

教会歴史を見ても律法廃棄主義者の教会は初めは福音的で恵みに満たされているのですが、次第に先鋭化し、その結果カルト化・セクト化します。
ルターの宗教改革のときにも、ウェスレーのメソジスト運動のときにも、この律法廃棄主義は現れました。

③律法廃棄主義を認めたとき、どんなことが起きるか?

律法主義者は「救われたクリスチャンはそれにふさわしい行いをせよと聖書に書いてある」と教えて、クリスチャンを苦しめ、失望させ、教会から離れるように仕向けます。

律法廃棄主義者は「救われた後の行いは全く重要ではないと聖書に書いてある」と教え、クリスチャンを一瞬納得させ、その後で途方に暮れさせます。

なすべき行いがあるのに何もしないでいるとき、サタンの格好の餌食(えじき)になります。

自分自身が無代価で救われたのだから、人々を条件なしに受け入れるという、やりがいのある仕事がクリスチャンには与えられています。
生きている限り、精進したいものです。

◎平安と祝福を祈っています。

        

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