ギブアンドテイクとテイクアンドギブ

「人間関係はやっぱりギブアンドテイクよね」などというセリフを聞くことがあります。
でもなんかおかしいと言うか、違和感が残ります。

それはその言われている方の本音は「テイクアンドギブ」と言っておられるからではないでしょうか?
「そっちが初めにくれたら、やらないでもない」と言っているのです。

しかしギブアンドテイクの真意は「与えなさい。そうすれば与えられます」(聖書の言葉)です。
与えない限り、与えられないのです。
それを間違って受け取って「くれたら、お返しに与えないでもない」というのでは永久に与えられる機会はやってきません。

1.なぜ私たちは先に与えられることを要求するのか?

①それは失った経験があるから

過去に大切なものを失った経験があると、今度もまた失うのではないかと恐れます。
その恐れが暴走すると、自分が与えなければならないような状況になると脊髄反射的(せきずいはんしゃてき)に与えることを拒否するようになります。
多くの人は幼児期から成人になるまでの過程で、失う経験(喪失体験)を多くしています。

②それを取り戻したいと願っているから

無意識的に人生のどこかで、失ったものを取り返したいと思っています。
それはことあるごとに意識の表面に出てきます。

自分の子供に親の夢の実現を強要する親御さんがおられます。
これは実現できなかった自分の夢を取り戻すためです。

しかし親の夢を押しつけられた子供はたまったものではありません。
子供には子供自身の夢を追求する権利があります。
子どもの権利を侵害してはなりません。

③「与えられる訳ないさ」と心のどこかで諦(あきら)めているから

ある人は「諦めているなら、なぜ先に与えられることを求めるのでしょうか?」と問うでしょう。
それは初めから人生という名前の試合をなげているからです。
要するに戦う気が、さらさらないのです。
リングに上がらないで、場外から叫んでいるのです。

リングに上がらないで場外で叫んでいる限り、気が楽ですし、大きな損失もないように見えます。
しかしリングに上がって人生という名前の試合を真剣勝負で行わない限り、祝福がやってくることもありません。

2.イエス・キリストがプレゼントとして私たちに与えられた

①それは最も大切なものが与えられたことを意味する

女性が男性に対して根強い不信感を持っているのを見ると、ありのパパは心の中で「ひょっとしてこれはエデンの園で男性の始祖であるアダムが女性の始祖であるエバを愛するという役目に失敗したことが、人間のDNAに焼きついているのではないか」と思ったりもします(笑)。

罪のために失った、人間が幸福になる権利を、イエスは自らが十字架に掛かることによって回復してくださいました。
ですからこのイエスを自分の心のうちにお迎えした者は、失ったものが回復されるのです。

②それはすべてのものが与えられたことを意味する

このイエスが、主の祈りにあるように「日々の生活に必要な一切合切を与えてください」ます。

③それは本質的なものが満たされることを意味する

霊的な必要はもちろんのこと、精神的な必要も満たされます。
霊的な必要とは、イエスの御霊と呼ばれる聖霊なる神が信じる者と共にいてくださるということです。

精神的な必要とは、社会生活の中で必然的に受けてしまう心の傷をイエスが癒してくださるということです。

3.どうしたら与えられる前に与えることができるか?

①人々を日々受容する

「夫に受容されたら、私も受容する」と口をとがらせて、ありのパパに言った方がおられました。
しかしその方は聡明な方であり、自分から受容しない限り、誰も自分を受容してはくれないことを理解され、精一杯ご主人を受容なさるようになりました。

これは訓練でもあります。
自分から始めるのです。気分が良くても悪くても、とにかく実践するのです。
(もちろんどんな人でも受容すれば良いというものではありません。包丁を振り回している人がいたら、この場合は受容するのではなく、その包丁を振り落とすことがまずやるべきことです。)

②自分自身を日々受容する

自分自身と自分の区別がよく分からないという方がおられます。
それはそのぐらい自分自身を無視し、抑圧してきたということでもあります。

全然感じなくても、自分自身に向かって話しかけてみることです。
そうしたら今まで隠れていた自分自身が姿を現すようになります。

鏡に映る自分自身に向かって、日々「あなたを愛している。あなたはわたしの目に高価で尊い」と言ってあげることです。

ある方がキリスト教雑誌で「鏡に映る自分に[あなたを愛している]と言えと教える者がいるが、そんなものはでたらめであり、真のキリスト教ではない」と書いておられました。

しかしそうではありません。
「木は実をもって知られる」のです。
本物かどうかは社会でどのような証を立てるかということに掛かっており、また裁きの御座で父である神が明らかにしてくださることです。

③神にそのままの自分が愛されていることを日々感謝する

他者を受容できるのも、自己受容が出来るのも、その恵みの源泉はイエス・キリストにあります。
イエス・キリストが十字架に掛かるほどに私たちを愛してくださったのです。
ここに神の愛があります。

こんなにも神さまに愛されているからこそ、今日も生きて行くことができるのです。
信仰生活に力がないと感じるとき、恵みが当たり前に感じられるとき、それは神が私を愛してくださっていることを忘れているときではないでしょうか?

神の愛を忘れるのは、神の愛を必要とするほどには自分の無力を痛感していないからです。
自分の無力を痛感するときに初めて神の愛を必要とするようになります。

与えられる人生ではなく、与えて生きる人生こそ、生きがいのある人生です。

◎平安と祝福を祈っています。

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