五つのパンと二匹の魚の奇蹟

五つのパンと二匹の魚だけで、何千人ものお腹を一杯にすると言う奇蹟をイエスは行われました。
ありのパパなら、この奇蹟一つで十分であり、あとはその思い出だけで生きて行くことができると思われるほどです(笑)。
しかし当時の人々はそうなりませんでした。

①イエス様が「人が真に自立した存在となるためには、真の神を心に迎え入れることが必要である」と説かれると、人々は「私たちが信じるためには、あなたはどんな奇蹟を見せてくださいますか?」と聞きました。

これを本音のところを強調して訳すと、こうなります。
「ほぉ~、結局あんたは自分のことを信じなさいと言いたいわけですね。話によっちゃ、信じてやっても良いが、そのためにあなたはどんな奇蹟を私たちに見せてくれますか?」
イエスは何物にも依存しない自立した人の有り様を説いておられるのに、そのために必須である救い主を信じるということを、御利益信仰と同じにしているのです。
話が噛み合わないのも甚だしいと言わなければなりませんが、イエス様は「俺、もうやんなっちゃった。天国に帰る」とは言われませんでした。
ありがとう、イエス様!(笑)
あくまで忍耐深く人々が真の価値観に目覚めるのを待っておられました。

②神様以外のものに依り頼むと、私たちは依存症になります。

「信仰は別でしょ?」という声が聞こえてきそうですが、いいえ例外はありません。
奇蹟を体験すると、信仰者は奇蹟依存症とでも呼ぶべき状態におちいる危険があります。
伝道に熱心な信仰者は、伝道依存症とでも呼ぶべき状態に陥りやすくなります。
議論好きなクリスチャンは、議論依存症にかかりやすいのです。
教会でさえも、依存の対象とするなら、教会依存症になります。
副作用がないのは、神様に直接依存する道だけです。

精神的・霊的に自立していない人は、何をやっても依存的になると言えます。
では精神的・霊的に自立するには、どうしたら良いのでしょうか?

③神との関係において自立する。

願いがかなったら、自分は神に愛されており、叶えられなければ自分は神に愛されていないと感じる人は、霊的に未熟な人です。
成熟した人は、成功しても失敗しても、神が私を愛しておられることを疑いません。
こんなことを書いているありのパパも、信仰に入ったばかりのときは、電車に乗って寝過ごすと「なぜ神は私を起こしてくださらなかったのか?」と真剣に悩みました(恥ずかし~い)(笑)。

④自分自身との関係において自立する。

「やれば出来る」と考えている人は、本当のところを言えば、精神的に未熟な人です。
なぜかと言えば、成功した場合は自分が良くできたからと考え、その反対に失敗したときは自分に問題があるから失敗したと考えます。
結局、これは自分の努力に依存しているのにほかなりません。

「生きていれば、良いことも悪いこともある」と思えるのが、精神的に自立した人です。

⑤隣人との関係において自立する。

人が自分の思った通りに動いてくれたら、自分は幸せであり、良い友達に恵まれていると思い、自分の期待に反した行動をした場合は、自分はなんて惨めな人間であり、悪い友達しか持っていないと思うようなら、その人は依存的な人です。
対人関係で自立している人は、「私は私である。そして(and)、あなたはあなたである」という関係が築ける人です。
未熟な人は「私は私である。しかし(but)、あなたはあなたである」という緊張関係を築いてしまいます。
また支配的な人は「私は私であるが、だけどあなたはわたしのもの」という関係を築きがちです。
被支配的な人は「私は私であるけれど、私はあなたのものでもある」というまさに逆支配関係を造りがちです。
健全な人間関係とは、まず第一に「私は私である」とはっきり言い切れることです。
その次に「あなたはあなたである」と言うことができることです。
そして「私とあなたの間」に「だけど」や「しかし」という単語が入らず、「そして」という単語が入る関係です。
友人関係においても、夫婦関係においても、会社の人間関係においても、この距離の取り方が身に付くと人間関係がうまく行きます。

◎私たちが、霊的にも、精神的にも、社会的にも、真に自立した存在になることを、イエス様は願っておられます。
祝福を祈っています。

どうぞコメントをお残しください。初めてコメントなさる方は必ず自己紹介をお願いします。自己紹介のないコメントを承認することはありません。詳しくはメニューの「コメントしてくださる方へ」をご覧ください。