刈り入れの日を迎えるための三条件

讃美歌に「目を上げて見なさい。畑ははや色づいて刈り入れを待つばかりになっている」というのがあります。
ありのパパはこの讃美歌を歌うたびに、現実を見ると、魂が色づいて刈り入れを待つばかりになっているとは、どうしても思えませんでした。
しかし自分自身の認識が誤っているのを気づきました。
確かに二千年前から、心の畑は色づいて収穫を待っているのです。
ではどうしたら、主イエスのお約束通り、収穫の日を迎えることが出来るのでしょうか?

1.人々の必要にカウンセリング的アプローチをもって答える。

①ヨハネ4章35節でイエスは『刈り入れのときが来るまで、まだ四ヶ月あると言っていませんか。人の心に蒔かれた御言葉の種によって芽が出、刈り入れをするまでには、あと四ヶ月も待つ必要はありません。それどころかもう心の畑は色づいて刈り入れるばかりになっています。』と仰いました。

これを言われた直前にはサマリアの女の信仰を開眼させておられます。
そのことについてイエスは深い満足を感じておられたように見えます。
イエスの伝道方法は説教も奇蹟も行われましたし、悪霊追い出しもなされました。
しかしイエスが一番充実感を覚えられたのは、カウンセリング的アプローチであったようです。

②現代は伝道が難しい時代であると言われます。

直接的な伝道はむずかしくなっていき、効果もなかなか上がりません。
しかし同時に「心の時代」であるとも言われます。
ということはカウンセリング的アプローチであれば、まだ伝道の門は大きく開かれているのです。
伝道は難しいと言う暇があったら、カウンセリングを学ぶことだと思います。

③以前の日本の教会では「カウンセリングでは救われない」とか全く的外れなことが言われていました。

またカルトグループもカウンセリングを卑しめることによって、自分達の教えを高めるという手法を取っていました。
しかし最近の教会の牧師の不祥事の原因は、心の問題が癒されないでそのままになっていることであると思います。
「奇蹟によって癒されました!」と宣言しても、癒されていないものは癒されていないのです。
癒されたふりをすればするほど、膿がたまり、より醜い形で外部に噴出することになります。
だから癒されたふりをするのを止め正直な心になって、神のみもとに行かなければなりません。

2.教会

教会は信者の人格的交わりの場所です。
こう言うと必ず「でも礼拝の場所でもあるよね」という声があがります(笑)。
確かにその通りです。
しかし人格的な交わりなしの礼拝は、異教徒に混じって礼拝をしているのと余り変わりがありません。
もちろん同じ時間に礼拝と人格的交わりを同時にしなければならないと言うことではありません。
そうではなく礼拝は普段本音で交わっている人々と共にささげるのものであると言っているのです。

これが刈り入れとどう関係があるかと言いますと、大ありのこんこんちきなのです(笑)。
救われた人が教会に行かなくなる理由の一つは、教会の人間関係に躓(つまず)いたというものです。
本音で交わっていても躓くときは躓きます。
しかし本音で交わっているときの躓きは修復可能です。
建前で交わっているときの躓きは、それが原因となって「はい、さよなら」となります。

3.御言葉

聖書は読めば読むほど味わい深さが増す書物です。
聖書を読むという営みは一生続きます。
初めはぎこちなく、中盤では神学を読み込み、分かったつもりになるかもしれません。
しかしそれでも続けて聖書を読む営みを続けていると、聖書自身が輝きだし、読む人の人生を照らすようになります。
本当です。ありのパパの体験です(笑)。
ありのパパのように回り道をしないですむ道は、聖書は聖書によって解釈するという原則を守ることです。
もちろん神学を参考にしてもいいですが、聖書に神学を読み込むということを厳に避けなければなりません。

◎カウンセリング的アプローチと、本音の交わりと、聖書中心の信仰生活があれば、必ず多くの人々に福音をお伝えすることが出来ると信じます。
大いなる刈り入れのときを迎えたいと思います。

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