勝間和代と香山リカという生き方

巷(ちまた)では勝間和代さんという経済評論家と香山リカさんという精神科医が話題になっています。
そこで今日はありのパパが考えるカツマーとカヤマーについての印象を述べてみたいと思います。

1.勝間和代の光と影(笑)

①キリスト教ブログでの勝間さんへの評価というのは、「頑張るだけ頑張って、その向こうには何があるの?」みたいな、ある意味「ほっとけよ~・余計なお世話だよ」的な感想が多いようです。

自分の無力を認めることが出来る人は、自分の力を信じきって頑張り抜いた人だけではないかと思うのですが、皆さんは如何お考えでしょうか?
もちろん人によって早めに無力を悟る人と、遅めに無力を悟る人と、死ぬまで無力を悟れない人がいると思います。
しかしクリスチャンには無力を認めたふりをする人が多いのではないでしょうか。
だから、ちょっと突っ付くとすぐ暴発します(笑)。
本当に無力を認めた人かどうかを見分ける方法があります。
「私は罪人です。傲慢な者です。」とクリスチャンは念仏のように唱えますが、それに対して「本当にあなたは罪人だね~。どうしようもないね。本当に傲慢で。」などと答えようものなら、大変なことになります(笑)。
行くとこまで行った人だけが、本当に謙遜になれる人ではないでしょうか。

なぜ勝間和代さんに対する風当たりが強いかというと、その理由はそこまで頑張れない(本当は頑張りたくない自分がいる)のに、そのことを認めることができず、いい加減なところで分かったふりをしているから、頑張っている人がいると腹立たしく感じるというのが真相ではないでしょうか。

②日本人は他人の足を引っ張って、生きがいを感じる。

日本人は、頑張る人に対しては、みんなで足を引っ張ります(笑)。
もうこれは日本人DNAと言うしかないものです。
そして足引っ張りのせいで失敗しようものなら、みんなで「やっぱりね」と言って納得するのです(笑)。
再出発をする人に対しても、「また失敗するよ。見ててごらん」みたいな冷やかな目で見ます。

③勝間和代的二元論

勝間本の出だしは「今のあなたはダメなあなた」と鋭く指摘し、そして「かつての私もダメな私」であったと告白します。
そしてどうすれば「合格点な私」になれるかを自分の経験を振り返りながら、読者に教授します。
この「ダメなあなた」が「合格点なあなた」になれるというのは、「マイナスは必ずプラスになります」というのと似ているようにも思えます。

○マイナスは決してプラスになりません。

キリストがすべてのマイナスを既にプラスにしてくださっているのです。
ですからプラスをプラスとして受け取ることです。
ダメな私が合格点な私になることも決してありません。
その意味では世の多くのカツマーと呼ばれる人々は深い失望を味わうと思います。
しかし失望が深ければ深いほど、気づきもはっきりとしたものになります。
ですから希望があります。まさに「希望は失望に終わることがありません。」(聖書の言葉)

2.香山リカの光と影(笑)

①「成功するだけが人生じゃない」と言われて、本当に納得できる人はどの位いるでしょうか?

人は成功を願うのが人間らしいことではないでしょうか。
確かに成功だけを求めて生きる生き方は、虚しいものであると思います。
しかし成功を求めない生き方というのは、自分の仕事を通して社会に貢献することも放棄している人生でなければ良いのだがと心配します。

②「頑張らなくていい」「成功だけが人生じゃない」って言いながら、ご自分は相当頑張り、世の中的な成功を目指してない?

ご本人は(ありのパパから見ると)相当頑張っているように見えるのです。
何か自分の時間を削ってでも、仕事をしているように見えます。
これは人間は頑張らなくて良いといわれて「はい、そうですか」と納得できるような存在ではないということを示していないでしょうか。

3.勝間和代と香山リカはワンセットか?

①彼らはマッチポンプの関係であると言えなくもない(笑)。

頑張って、頑張って、頑張り抜いて、疲れて心に異常が発生すると、香山先生のところに駆け込み、「そんなに頑張らなくてもいいじゃない。何も成功だけが幸せじゃないでしょ」と言ってもらって安心する。
これは結局、振り子のような人生ではないでしょうか。

②二元論の片方ずつを担いでいる仲間ではないか。

香山リカさんが仰っていることは、一元論のように見えて実は二元論です。
なぜなら真の一元論は成功も失敗も全部神の御手の中にあることであり、それが人生であると受け入れるものです。
しかし成功だけを求めるのも、成功することを決して求めないのも、二元論です。
では二元論の片方ずつを足せば一元になるか言えば、これは決してそうなりません。

③一元の人生を生きるには、キリストの十字架が必要です。

人間が一元を生きようとして生きれるのなら、キリストの十字架は必要ではありませんでした。
どうしても二元論的な人生を生きてしまうのです。
なぜなら人間には罪があるからです。
それをキリストが人間の罪を背負って十字架で帳消しにしてくださり、頑張らないでも「合格点な私」になることができるようにしてくださいました。
それで救われた後は、合格できた喜びと感謝、また聖霊のバプテスマによって神の霊に満たされることにより、この世の人生を楽しみつつ歩むことが出来るようになるのです。
頑張って合格点な私になるのではなく、只で合格点な私になり、残った人生は「どこまで頑張れるかな~」と楽しんで人生を生きるのが聖書の約束する人生です。

○お断り:
言いたい放題なことを、しかも実名をあげて書いてしまいましたが、決して悪気はありませんので、カツマーの皆様、カヤマーの皆様、ご容赦くださいませ。

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