漸進的聖化とは(その2)

2.聖化論とカウンセリング

①ウェスレーが初めて神学の中にカウンセリングの概念を持ち込みました。

全的聖化の御業が転機的出来事(一瞬の内に起きるということ)であるとしたのも、多くの信者からの聞き取り調査の結果によります。
彼は自分で聞き取り調査をした結果、それならば「神は一般的に言って、瞬時的に聖潔の御業を行ってくださると言えると思う」と言いました。
ウェスレー以前に、信仰と心の問題を関連づけた人はいませんでした。(敬虔主義やモラビア兄弟団の人々を除いては)
しかし彼は救われるということと、心の問題を関連づけて考えるのでなければ、真のキリスト教とは言えないと主張しました。

しかしウェスレーが18世紀にメソジスト運動を始めたとき、カウンセリングという学問はまだ存在しませんでした。
それで彼は神学の内にカウンセリング的概念を持ち込みはしましたが、それは中途半端なものにならざるを得ませんでした。
というより彼の後継者たちがメソジズムを進展させていく責務があったのですが、彼らは護教的態度に終始しました。

②なぜ潔められた後も罪の誘惑に弱い人がいるのかという理由が、カウンセリングの発展によって明らかになりました。

それは生育歴というものが非常に大きな影響を人間に与えるからです。
乱暴なクリスチャンは「すべての傷は神様が癒してくださいます!」と宣言しますが、手術台に乗らないで宣言だけをしても手術は出来ないように、御業が宣言によって進むわけではないことを理解しなければなりません。

あなた自身に一番近しい人はあなたなのです。
そのあなたがあなた自身のことを良くわかっていなければ、神様に何処をどうして欲しいと申し上げることが出来ません。
神はあなたとご一緒に語り合いながら、治療をしたく願っておられるのです。

③カウンセリングと信仰が一つになる必要があります。

ある牧師さんと神学のお話をしているとき、ありのパパがカウンセリングの話をするので「なぜ神学の話をしているのに、カウンセリングの話をするのですか」と言われたことがありました。
確かに仰る通りではあるのですが、信仰はカウンセリング的な問題を解決するためのものであると考えているありのパパにとっては首をひねるような言葉ではありました。
キリスト教信仰は力あるものです。
その力あるキリスト教信仰を社会においても有効なものとする道は、キリスト教信仰のカウンセリング的なアプローチによるほかはないと思っています。
誰でも効果があると思ったら、そこが教会であっても何処であっても、やってくるのではないでしょうか。

3.聖化論と人格の成熟

ホーリネス派の教会にいたとき裏話のように語られていたのは、「全く潔められたと証する人ほど、付き合いづらい人が多い」ということでした。
なぜそうなるかと言うと、やはりこれも個人の生育歴を無視した結果だと考えます。
誰にでも弱点があります。
その弱点をないものとして見て見ない振りをするとき、抑圧されたクリスャンとなります。
カルヴァン系統の教会のクリスチャンが、生育歴を無視して、訓練のみで成長しようとするとどうなるかと言うと、恵まれたクリスチャンを演じることになります。

潔められるということが人格的な成熟とイコールで結ばれるのが、聖書に忠実な信仰です。
そうなるためには、どうしたらよいでしょうか?

①問題から逃げないことです。

自分自身の問題であっても、家庭の問題であっても、問題のあることをはっきりと認めることです。
流れ星を見た瞬間に自分の願い事を言える人は、願いが叶えられる人であると言われます。
それは瞬時に告白できるほど願いが明瞭であるからです。
同様に「あなたの問題は何?」と聞かれるとき、瞬間的に応答できる人は幸です。
「何かあったかな?」と言うようではお先真っ暗です(笑)。

②現実の世界の中でチャレンジして行くことです。

もし祈りと瞑想の中で時を過ごすだけなら、それは妄想と変わるところがありません。
現実の社会に挑戦することです。
それで傷つき、敗北したように見えても、祈りを通して神様に癒していただき励ましを頂戴し、再びチャレンジすることです。
私たちは生きている限り、挑戦することが出来ます。
それが終わったら、永遠の御国で永遠の安息に憩います。ハレルヤ!

③異言の効用

今まで書いてきましたことは、言うは易し、行うは難しのことばかりです。
もし異言で祈る賜物を用いて、神様と人格的な交わりをなすのでなければ疲れ果ててしまうかもしれません。
ペンテコステ派以外のクリスチャンが、異言に対してどのような見解をもっているかを存じております。
しかしあえて言わせていただきますが、異言で祈る賜物を用いての神様との人格的交わりは、クリスチャン生涯においての宝物です。
是非すべてのクリスチャンの方々が異言で祈る賜物を用いて神さまとの人格的交わりに生きられますようにと、主の御名によって祈らせていただくものです。

◎聖書に教えに従い、キリストと共に人生を歩むとき、人格が成熟し、真の聖化の御業が人格の内に行われます。

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