漸進(ぜんしん)的聖化とは何か?

google検索で「漸進的聖化とは」というワードで、このブログを訪問してくださる方が多いようです。
それで今日は皆さんとご一緒に、漸進的聖化とは何かということを考えてみたいと思います。
ただありのパパが教えられた漸進的聖化と、google検索で来られた方の考える漸進的聖化とは、中身が違うかもしれません。
それも含めて、福音主義キリスト教が教える漸進的聖化とは何かを学ぶことによって論点が整理されると考えています。

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1.キリスト教の教える聖化論

キリスト教プロテスタントの神学には二大潮流があり、一つはウェスレア二ズムであり、もう一つはカルヴィニズムです。

①ウェスレアン・アルミニアン神学の教える漸進的聖化

漸進的聖化とは何かを見ていく前に、全的聖化ということを見てみたいと思います。
全的聖化とは、聖霊のバプテスマによってもたらされる神の御業です。
この全的聖化によって何がなされるかと言うと、罪の性質(原罪とも言います)が除去され、神と人への愛に満たされます。
ここで疑問が起きるのが、全く潔められるのなら、漸進的聖化は必要ないではないかということです。
しかしウェスレアン神学では全的聖化の前後に漸進的聖化の御業があると教えます。
これはどういうことかと言うと、神と共に歩む信仰生活を送っていると、いつかどこかで転機的出来事が起きます。
これが全き聖潔の体験であり、神と共に歩むことが漸進的聖化であるとします。
ですから神と共に歩んで(漸進的聖化)いなければ、転機的出来事(全的聖化)も起こり得ないわけです。
当然、転機的出来事の後も、神と共に歩み続けるわけですから、漸進的聖化の御業も続いて起こることになります。

②カルヴァン神学の教える漸進的聖化

カルヴィニズムは全的聖化を認めませんから、救われたときから死に至るまで、漸進的聖化の業がなされると信じます。
その結果どうなるかというと、二つの極端が生れました。
一つはキリスと者としてどの程度の水準で生きれば良いのかということについての理解があやふやになりました。
その端的な例は「人間は罪人だから罪を犯して当たり前」という考えです。
これがどれだけ間違っているかは、アルコール依存症の人々のことを考えると、すぐにわかります。
アルコール依存症の人々が、同じような言いぐさをして、再飲酒したとします。
そうすると彼らはあっと言う間にあの世行きです。
それで彼らは本気になって再飲酒という罪を犯さないように、神の力と助けを仰ぎます。
人間だから罪を犯して当たり前などと、うそぶく連中より、アル中の方がよほどクリスチャンらしいと言わねばなりません。
元アル中は神の恵みによって再飲酒しないことが可能であると信じています。
もし彼らに可能であるなら、当然クリスチャンも罪を犯すことなしに生きていくことが可能ではないでしょうか。

もう一つの極端は、聖化のための恵みを信じないので、代わって人間的な訓練を重視するようになりました。
即ち信仰の訓練によって、漸進的聖化の御業が進むと考えたのです。
これが皆さんが良くご存じの、長老派教会から出てきた弟子訓練の考え方です。
しかし弟子訓練の結末を見ても分かるように、人間を人間が訓練するということには限界があり、その限界を超えようとすると、カルト的支配という罪を犯してしまうなどの弊害があると考えます。

③ありのパパが考える聖書的聖化論

ありのパパは元はウェスレアン神学を信じていましたし、神学の枠組みは今もアルミニアンです。
しかし幾つかの点でホーリネスの全的聖化論を今は受け入れていません。

a.そもそも聖書は何と言っているか?

神学の読み込みをせずに、聖書を聖書によって理解するということを丹念に行ったとき、聖書は全的聖化を言っていないという結論を出さざるを得ませんでした。

b.全く潔められたはずであるにもかかわらず、誘惑があり、実際に罪に陥ることがあるから。

これはウェスレアンもそのように教えていますので矛盾はないように思えます。
しかし良く考えてみると、それでは一体何のための全的聖化なのかということにならないでしょうか?
全き聖潔をいただく前には、罪の誘惑に弱い自分がいました。
それで聖潔の恵みをいただくなら、罪の誘惑に勝つことが出来ると教えられ、体験を求めます。
そうであるにもかかわらず、一時の興奮状態が醒めると、やっぱり元のように罪の誘惑があり、誘惑に弱い自分がいるのです。
挙げ句の果てに、潔めていただいたにもかかわらず罪を犯す不甲斐ない自分を責め抜きます。
これでは何のための全き聖潔か分からないというのが正直な感想です。

c.聖霊のバプテスマと聖化の関係

ウェスレアンでは聖霊のバプテスマによって全的聖化の業がなされると信じています。
しかしありのパパは上記の理由から、これら二つのものは別物であると考えています。
聖書にも、この二つのものが同一のものであることを示す個所はありません。
ウェスレアン神学の論理的帰結によって、二つのものが一つとされたということだと思います。
聖霊のバプテスマは信者を聖霊に満たすためと、神様と人格的に交わるための賜物である異言で祈る賜物を与えるためのものであると、今では信じています。

2.聖化論とカウンセリング

①ウェスレーが初めて神学の中にカウンセリングの概念を持ち込みました。

全的聖化の御業が転機的出来事(一瞬の内に起きるということ)であるとしたのも、多くの信者からの聞き取り調査の結果によります。
彼は自分で聞き取り調査をした結果、それならば「神は一般的に言って、瞬時的に聖潔の御業を行ってくださると言えると思う」と言いました。
ウェスレー以前に、信仰と心の問題を関連づけた人はいませんでした。(敬虔主義やモラビア兄弟団の人々を除いては)
しかし彼は救われるということと、心の問題を関連づけて考えるのでなければ、真のキリスト教とは言えないと主張しました。

しかしウェスレーが18世紀にメソジスト運動を始めたとき、カウンセリングという学問はまだ存在しませんでした。
それで彼は神学の内にカウンセリング的概念を持ち込みはしましたが、それは中途半端なものにならざるを得ませんでした。
というより彼の後継者たちがメソジズムを進展させていく責務があったのですが、彼らは護教的態度に終始しました。

②なぜ潔められた後も罪の誘惑に弱い人がいるのかという理由が、カウンセリングの発展によって明らかになりました。

それは生育歴というものが非常に大きな影響を人間に与えるからです。
乱暴なクリスチャンは「すべての傷は神様が癒してくださいます!」と宣言しますが、手術台に乗らないで宣言だけをしても手術は出来ないように、御業が宣言によって進むわけではないことを理解しなければなりません。

あなた自身に一番近しい人はあなたなのです。
そのあなたがあなた自身のことを良くわかっていなければ、神様に何処をどうして欲しいと申し上げることが出来ません。
神はあなたとご一緒に語り合いながら、治療をしたく願っておられるのです。

③カウンセリングと信仰が一つになる必要があります。

ある牧師さんと神学のお話をしているとき、ありのパパがカウンセリングの話をするので「なぜ神学の話をしているのに、カウンセリングの話をするのですか」と言われたことがありました。
確かに仰る通りではあるのですが、信仰はカウンセリング的な問題を解決するためのものであると考えているありのパパにとっては首をひねるような言葉ではありました。
キリスト教信仰は力あるものです。
その力あるキリスト教信仰を社会においても有効なものとする道は、キリスト教信仰のカウンセリング的なアプローチによるほかはないと思っています。
誰でも効果があると思ったら、そこが教会であっても何処であっても、やってくるのではないでしょうか。

3.聖化論と人格の成熟

ホーリネス派の教会にいたとき裏話のように語られていたのは、「全く潔められたと証する人ほど、付き合いづらい人が多い」ということでした。
なぜそうなるかと言うと、やはりこれも個人の生育歴を無視した結果だと考えます。
誰にでも弱点があります。
その弱点をないものとして見て見ない振りをするとき、抑圧されたクリスャンとなります。
カルヴァン系統の教会のクリスチャンが、生育歴を無視して、訓練のみで成長しようとするとどうなるかと言うと、恵まれたクリスチャンを演じることになります。

潔められるということが人格的な成熟とイコールで結ばれるのが、聖書に忠実な信仰です。
そうなるためには、どうしたらよいでしょうか?

①問題から逃げないことです。

自分自身の問題であっても、家庭の問題であっても、問題のあることをはっきりと認めることです。
流れ星を見た瞬間に自分の願い事を言える人は、願いが叶えられる人であると言われます。
それは瞬時に告白できるほど願いが明瞭であるからです。
同様に「あなたの問題は何?」と聞かれるとき、瞬間的に応答できる人は幸です。
「何かあったかな?」と言うようではお先真っ暗です(笑)。

②現実の世界の中でチャレンジして行くことです。

もし祈りと瞑想の中で時を過ごすだけなら、それは妄想と変わるところがありません。
現実の社会に挑戦することです。
それで傷つき、敗北したように見えても、祈りを通して神様に癒していただき励ましを頂戴し、再びチャレンジすることです。
私たちは生きている限り、挑戦することが出来ます。
それが終わったら、永遠の御国で永遠の安息に憩います。ハレルヤ!

③異言の効用

今まで書いてきましたことは、言うは易し、行うは難しのことばかりです。
もし異言で祈る賜物を用いて、神様と人格的な交わりをなすのでなければ疲れ果ててしまうかもしれません。
ペンテコステ派以外のクリスチャンが、異言に対してどのような見解をもっているかを存じております。
しかしあえて言わせていただきますが、異言で祈る賜物を用いての神様との人格的交わりは、クリスチャン生涯においての宝物です。
是非すべてのクリスチャンの方々が異言で祈る賜物を用いて神さまとの人格的交わりに生きられますようにと、主の御名によって祈らせていただくものです。

◎聖書に教えに従い、キリストと共に人生を歩むとき、人格が成熟し、真の聖化の御業が人格の内に行われます。

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“漸進(ぜんしん)的聖化とは何か?” への4件の返信

  1. クリスチャンとなった後、聖霊の助けによって栄光から栄光へと聖化されてキリストの似姿に変えられていく必要を感じさせられていますが、ホーリネスが言っている全的聖化の意味が理解が難しく、又ローマ7章22節にあるパウロの嘆きの様な信仰状態はきよめられると起こらないかの様にホーリネス系の書物に書いてあるが、聖書の他の箇所を調べると何か変な気がしていました。
    なぜなら、何時までもこの戦いが自分の中にあるからです。
    そこで全的聖化及び漸進的聖化等聖化に関して検索しました。
    分かりやすく教えて下されば幸いです。宜しくお願いします。

  2.  ヤマチャンさん、こんにちは。
    初めてのコメントをありがとうございます。

    全的聖化および漸進的聖化について教えてほしいということですが、この問題をブログに書くには余りに問題の範囲が広すぎます。
    ですのでピンポイント的に聖化論の中でも「この問題」について書いてほしいというのがございましたら、それを教えていただければ幸いです。
    よろしくお願いします。

    またコメントしてください。お待ちしています。

  3. ヤマチャンさん、こんばんは。
    コメントをありがとうございます。

    聖潔派で言うところの全的聖化について教えてほしいということ、了解いたしました。
    しかしながら既に当ブログには全的聖化について書いた記事が多くあります。
    ですので、まずそれらをお読みいただき、その後でなお知りたいというのがありますなら、それについて書かせていただきたいと思います。
    当ブログの検索欄に「キリスト者の完全」と入れていただくと、全的聖化について書かれた記事がヒットします。
    キリスト者の完全とは、全的聖化の別の呼び名です。
    よろしくお願いします。

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