与えられた人生を生きるたった一つの秘訣は無力を徹底して認めること

イエスが地上におられた時代、ベテスダという池がありました。
その池は間欠泉(かんけつせん)であって、時々水が吹き出すのを待って、人々は我先に池に飛び込みました。
なぜなら一番初めに飛び込んだ者が癒されるという迷信があったからです。

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1.神の癒しは無代価で与えられる

一番初めに飛び込んだ者が癒される栄冠にあずかれると信じ込んでしまうとは、人間とはどれだけ競争が好きな存在でしょうか。
神様が見ておられたら「お前ら、いい加減にせえよ」と言ったとか、言わないとか(笑)。

しかしこれと同じようなことを私たちはしていないでしょうか。
教会でも、一番の前の席を金の席、二番目の席を銀の席、それ以外の席を銅でもいい席(笑)などと呼んで、信者になるべく前の方に座るように勧めていました。
これも一種の競争です。
しかしこのような競争原理に支配されている限り、恵みにあずかることは不可能です。
なぜなら恵みとは、競争原理に生きることを止めた人々に与えられるものだからです。

2.与えられる人生とは、神様のほうから、こちらに来てくださる人生

ホーリネス派のクリスチャンとしてありのパパも熱心に全き聖潔(まったききよめ)の恵みを求めました。
当時所属していた教団では、正月三が日に新年聖会というものがありました。
その新年聖会に断食して出席しました。
しかし朝になっても、腹が減って寝床から起き上がることが出来ず、やっとの思いで起きても目がくらむわで、心の中で不甲斐ない自分を責めておりました。
「こんな自分じゃダメだ。こんな自分じゃダメだ。」
会場に入ると既に説教が始まっていました。
席には着いたものの「こんな自分なんか、神様に潔(きよ)めていただくことなんか出来ない」と心の中で泣いていました。
しかし神様は個人的にありのパパに語ってくださいました。
「あなたは今まで自分の力で潔められることを求めていた。これからはわたしがあなたの潔め主(きよめぬし)となってあげよう」
救いの確信が与えられたときとは違って、爆発的な喜びはありましたが、魂に焼き印を押されたような圧倒的な確信はありませんでした。
その時の正直な気持ちは「確信が欲しい」というものでしたが、神様が「これからはわたしがあなたの潔め主となってあげよう」と言われるのに、これ以上確信を求めることは出来ないという思いでした。
しかし時々遠慮がちに「神様、確信が欲しいんですけど」と申し上げておりました(笑)。
そうしましたところ、二・三ヶ月経ったとき、確信を求める祈りをしているとき、神様が「それでもあなたは潔められていることを信じないのか」と言われたように感じました。
「それでも」と言われて、この何ヶ月間の自分の歩みを振り返ってみると、聖霊の絶えざる臨在があったことに気づきました。
それで「神様、信じます。神様、信じます。あなたが私を潔めてくださったことを信じます」と申し上げました。

3.真に無力を認めるとはどういうことか?

自分で求めているときは、なかなか与えられず、自分の力に失望して落ち込んでいるとき、神様のほうから与えに来てくださるのです。
浅知恵のありのパパは、それからは本心は我力(がりき)満々であるのに、それを隠して力のない振りをしたりしました(笑)。
もちろん振りをしているときは、神様からの応答はなく、「あれ?なんでかな?」と訝(いぶか)しんでいました。
今も愚かな者ですが、この文章を書いていて笑えて仕方がありません。
よくこんな者を愛して、受け入れてくださり、導いてくださったものだと思います。
神様に感謝にささげ、栄光をお返しいたします。

◎振りをしている限り、どんな神の業(わざ)も起きることはありません。
しかし、もしあなたが本当に自分の力に絶望しているなら、あなたがどんな人であったとしても、必ず神様はあなたとあなたの人生に訪れてくださり、神の奇跡的な御業を与えてくださいます。
平安と祝福を祈っています。