霊的な礼拝のカギ。それは聖霊と聖書の言葉にかかっている。

「霊的な礼拝」と言われて皆さんはどのようなものをイメージされるでしょうか?
霊的の対極にあるのが儀式的礼拝であり、それは古くさい讃美歌を歌い、何を言っているのか分からない説教によって構成される礼拝。
霊的な礼拝とは、現代的なセンスに溢れるゴスペルと、生活への適用に溢れる説教によって構成されるもの。
「あぁ、私もこんな霊的礼拝に参加してみたい」(笑)。
しかし残念ながら、ゴスペルを歌っているというだけでは感情的な礼拝ということは出来るかもしれませんが、霊的な礼拝ということにはなりません。
また生活への適用に溢れる説教なら、別にキリスト教会を探さなくても、そんな「ちょっと良い話」なら何処にでも見つけることが出来ます。

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1.霊的な礼拝とは救い主を礼拝するもの

御霊の内住とは、目に見えないものです。
しかし人間の内側に御霊がおられるなら確かな変化がその人のうちに起こります。
イエスはその確かな変化を、一度飲んでもまた渇く「普通の水」と、一度飲んだら再び渇くことのない「心の水」に例えておられます。

薬物依存症やアルコール依存症の方が良く言われるのが、「私は心の渇きをいやすために、これらのものを求めていたと思う」ということです。
しかし渇きが止まることは決してありませんでした。
却ってその方の人生をダメにするばかりでなく、肉体を滅ぼす寸前まで行ったのです。
ただイエスだけが決して渇くことのない心の水であられます。

2.どうしたら永遠の命がわき出るようになるか?

「湧き出る」とか「溢れ出る」という言葉は、内側に止まらないで、惜しげもなく外側に恵みがこぼれ出るということです。

①自分の無力を認め、神様ならこんな自分を救うことが出来ると信じ、自分の意志と生き方を神に捧げるのが信仰

一度信じたなら、後は信じた通りに生きることです。

立派に生きようとする勘違いクリスチャンがおられますが、そうではありません。
一度無力を認めたのですから、生涯に渡って無力を認め続けなければなりません。
パウロが『あなたがたは信仰によって始めたことを、律法によって完成させるつもりなのか』と言ったのは、このような意味です。
もう救われたのですから、救われるための努力を止めなければなりません。

②救われたのだから、救われた者にふさわしく生活する必要がある

大学に入るためには受験勉強が必要ですが、大学に入った後も受験勉強する人はおりません。
大学に入ったのは、大学で勉強する目的があったからです。
ですから、受験勉強を止めて、本来の大学の勉強を始めます。
もし「大学に入ったから、もう勉強はしない」と言うなら、それはとんでもない勘違いということになります。

クリスチャンにとって、大学に入っても受験勉強を続けるのが、律法主義に当たります。
また大学に入ったから、もう勉強はしないというのが、熱狂主義です。
ではクリスチャンにとって、大学でする本来の勉強とは何でしょうか。
『神は私たちクリスチャンのために、良き行いを備えていて』(聖書)くださいます。
この良き行いを、楽しんでやり、喜びと感謝を与えられるのが、クリスチャン生活です。

③自分自身がただで救われたのだから、人にもそのように接しなさい

自分は努力なしに救われたのに、人には「なんであなたはダメなのか」と言うなら、それは偽善です。
これは自らの救いを失う結果になります。注意が必要です。

3.『御霊と御言葉によって、救い主を礼拝するのが霊的な礼拝です』[ヨハネ4:23]

①御霊によって礼拝するとは、どういうことか?

上記の御言葉で言われている「御霊によって」とは、私が主役となって生きるのではなく、イエスの御霊が私を通して生きてくださることを指しています。
(言うまでもないことですが、これは「神と私」の関係についてのことです。決して神以外の誰かが、あなたの人生を通して生きるのを受け入れてはなりません。)
ここでの礼拝とは、日曜に行われる礼拝にとどまらないで、人生全体が礼拝であるということです。

②御言葉によって礼拝するとは、どういうことか?

皆さんは「御言葉によって礼拝する」とは、どういう意味だと思われますか。
聖書の講解が中心に据えられている礼拝のことでしょうか?
ありのパパは以下のように考えます。
クリスチャンが一人の人間として、聖書に対面し、そこから神は何と言っておられるかを読み取り、御意を確信したら立ち上がり、行動に移す。
このような営(いとな)みを指して、「御言葉によって礼拝する」と言われていると考えます。
もちろん日曜の礼拝で語られる牧師の説教も、信仰の書物も、聖書注解もみな、この目的のために有益です。
しかし最後は自分一人で神の前に立ち、御意を読み取り、決断し、実践しなければなりません。
この様なことに対して、神の裁きと報奨が下されるのです。

③真の霊的な礼拝とは、人生が礼拝そのものになっていること

自分の人生を省みるとき、自分で書いた文章のようになっていないのを認めないわけにはいきません。
ありのパパも悔い改めて、もう一度礼拝そのものである人生を生きるために、リスタートしたいと思っています。

◎無力を認めることと、聖書から御意を受け取り考えて決断し行動することの二つを、主は求めておられます。
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. adamⅢ より:

    はじめまして、良く参考にさせてもらっております。感謝です。
    ヨハネ4:23は「霊とまことを持って礼拝」と書いており霊と御言葉とは書いてないと思うのですが、どういうことでしょうか?

    • arinopapa より:

      adamⅢさん、こんにちは。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      「御霊と御言葉」というのは現代訳聖書の訳文です。
      「霊と真(まこと)」は新改訳聖書と口語訳聖書と文語訳聖書で使われているのを確認しました。
      この違いはどこから来るかといいますと、現代語訳とリビングバイブルは「原意(もともとの意)に忠実」、他の聖書は「原語に忠実」という翻訳原則の違いによるものです。
      原語に忠実という翻訳原則が一般的ですが、たとえば聖書が翻訳されていない地域での聖書翻訳を進めているウィクリフなどでは「原意に忠実」な翻訳原則に基づいて聖書翻訳がなされています。

      これからもよろしくお願いします。