一人一人皆ちがって、みな良い。

痴呆性老人のための社会保険施設をグループホームと言います。
そのグループホームを訪問したとき、たまたま複数の方の居住部屋を見る機会がありました。
その部屋は、住んでおられる方の生き方を象徴しているようにも思えました。
実にきれいに整頓されておられるお部屋もありました。
しかしそうでない方のお部屋もありました。
雑然と散らかっているお部屋です。
はっきり言ってしまうと、汚いお部屋です(笑)。
しかし良く言えば生活感に溢れており、今何をしているのかが手にとるように分りました。

そのとき思ったのですが、これが家族との同居であれば、こうは行かないだろうなと言うことです。
部屋を汚くしていると、同居の家族にストレスを与えます。
またご自分も家族にきれいにしろとうるさく言われて肩身の狭い思いをし、同様にストレスがたまるのではないかということです。

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一人一人の有り様を認める。

もちろん限度を超えて不衛生なのは、不足の事態を引き起こす危険がありますから認めるわけには行かないでしょう。
けれどもできるだけその方の基準に合わせた日々の暮らしを送ることができたらなんと幸いなことでしょう。
誰かの基準に合わせるのでない自分の基準に従って生きる権利を互いに尊重できることが愛のある社会ではないでしょうか。
そのグループホームでは、衛生面に気を配りながら、驚くほどに各人の自由を尊重しておりました。

これを見て感じたことがありました。
それは人間関係で起きるトラブルのほとんどは、「あなたはわたしと同じでない。あなたはわたしと同じになるべきだ。」という間違った思い込みによって起きているのではないでしょうか。

教会の問題

ありのパパがかつて所属していた教会は、集会出席が中心の教会であり、交わりが極端に薄い教会でした。
その教会を出るまでは、そのことが不満でした。
しかし現在のような教会の不祥事が続発していることを見ると、交わりが濃厚なのも良し悪しであると感じます。
聖書から見ると、集会出席だけで、クリスチャン同士の交わりがないことは不健全なことです。
しかし交わりが濃厚であっても、その交わりがカルト教会のような恐怖による支配のために使われているなら、それは犯罪です。
ここまで酷くなくても、教会員同士の交わりを出来れば避けたいと感じているクリスチャンも少なからずおられるのではないでしょうか。
これは相手の人格を尊重するということがどういうことかを知らないまま、交わりが濃くなると、人格の自他同一視ということが起きがちであるからです。
どんなに仲が良くても、相手は自分と同じではないという当たり前のことがなかなか理解できないのです。
これを予防する方法は、相手と自分の間に明確な境界線を引くことです。

◎「私は私である。そしてあなたはあなたである」という理解に立って、各自の有り様を尊重することができたら、どんなに愛に満ちた人間関係となることでしょう。
平安と祝福を祈っています。

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