他人種と平和のうちに共存する方法

先日、新幹線に乗りましたときに、中国人観光客の一団と遭遇いたしました。
一番年配の方が座席ごとに写真を撮ってあげていました。フラッシュをたきながら。
周りの日本人を見てみると、不機嫌な顔をして、我慢をしているようでした。
その新幹線車内で一番不機嫌であったのは、誰でしょう?
そうです。この私です(笑)。
それで今日はどのようにしたら、異質な存在である人々と共生できるかについて、皆さんとご一緒に考えます。

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1.私たち日本人はアジア人に対して、上から目線でないだろうか?

①アジア人蔑視の理由

白人種の西洋人なら、日本人は卑屈な態度をとりがちです。
しかしどういうわけかアジア人に対しては、上から目線になります。
これは我が国の歴史に起因するものが大きいと感じます。
文化意識といいますか、心の根っこのところにアジア人蔑視の思想をはっきりと見て取ることが出来ます。

あるブログに韓国のキリスト教会に対する正当な批判記事が載ると、コメント欄には記事に賛同するかに見せかけて薄汚い罵詈雑言が並びます。
これは心の奥底にある差別意識が引き出されたものです。
このような者たちを聖書は偽兄弟とか偽クリスチャンと呼んでいるのです。

②差別した者は、いつか仕返しされるのではないかと恐れる

関東大震災のとき、風評にもとづいて在日の朝鮮人6400人を虐殺したのも、このような理由からです。

③昔弱かった者が強くなると、嫉妬心を覚える

韓国人・中国人に対する我々日本人の思いには複雑なものがあります。
なぜなら彼らは自分たちの元植民地であり、その彼らが今や私たちの国を凌駕しつつあるのです。
ある意味では複雑な思いを持つのもやむを得ないことですが、心の弱い人々はこの事実を受け入れることができません。
「俺な、やきもち焼いてん」と言えればなんと幸いなことでしょうか。
そうすれば彼らも「やきもち焼かれるほど、もてもせず」と言ってくれるかもしれません。

2.共生が困難に思える理由とは?

①コミュニケーション能力の欠如

子供は自分に似た者と友人になります。
後ろから見ていると、まるで双子のようです。
なぜなら彼らはまだコミュニケーション能力が十分に発達していないので、コミュニケーションをそんなに必要としなくてもすむ者を選ぶからです。

○私たち日本人のコミュニケーション能力はどの程度のものでしょうか?

②ちがいを愉しむことができない

自分と違うことが許せません。
なぜ自分と違うことを許せないかというと、劣等コンプレックスがあるからです。
普段の生活では、劣等コンプレックスが表に出てこないように何とか無理をして、コンプレックスなど無いかのように演じます。
しかしある人々の存在は、その劣等コンプレックスをいたく刺激します。
それで自分の存在を危うくする者に対して攻撃を仕掛けるのです。

○自分なんて虫けらに等しいと思っているなら、誰とでも仲よくすることが出来ます。

③覚せい剤依存症者とアルコール依存症者が一緒にミーティングをやってもうまく行かない理由

どちらの集団も神なしでは生けていけないことを認めた人たちです。
それにもかかわらずうまくやっていくことができないとは、人間の罪深さを思い知らされるようです。
また同じ差別されている障害者児童の親たちも、障害の軽い子の親が障害の重い子を差別するということがあるようです。

○同じひどいにしても、自分はあの人々ほどひどくはないというのが、罪人が持つ最後の砦(とりで)ではないでしょうか。

3.初代教会における生粋のユダヤ人とギリシャ系ユダヤ人との葛藤

①トラブルの原因

初代教会は一時期は原子共産制を取るほど、信者相互の連帯感が強かったのです。
それでもギリシャ語を話すユダヤ人とヘブル語を話すユダヤ人との間に配給を巡ってトラブルが起きました。
このトラブルの原因として考えられることは、
a.日常使っている言語が異なることにより、信者間の交流が言語グループに限定されたものになっていた。
b.食糧を配給する役目の者が、ヘブル語を話すユダヤ人だけで占められていたために、結果として配給が片手落ちになってしまったということではないでしょうか。

②初代教会の解決策とは?

初代教会はこの問題に対して理念がどうのこうのとか、「福音を信じていたらこんなことは起きないはずだ」などと言って、時間を無駄にすることはありませんでした。
速やかに長老を選出し、配給にトラブルが起きないようにしました。
選出された長老達の名前からの推測ですが、多くのギリシャ語を話すユダヤ人が含まれていたようです。

現代の教会ならどうするでしょうか?
ホーリネス派なら聖別会を開きそうですし、ペンテコステ派なら聖霊待望会を開くかもしれません。
これが悪いとは思いませんが、問題の解決に対して効果があるとも思いません。
こんなことをしているうちに、不当な扱いを受けた人々は教会から離れてしまうのではないでしょうか。

初代教会でさえ、この種の問題から自由でなかったのであれば、誰もこの問題に悩まされずに済むことはないと腹をくくらなければなりません。
どこかにうまい解決方法が転がっていないかと探すよりは、初代教会のように現実的な解決方法を選び実行することが御心にかなったことです。

◎ありのパパ自身はこの問題をまだ解決できていません。
自分と違う人たちと接すると、猛然と「自分と同じになれ!」という気持ちが沸き上がってくるのです。
ただしそれを正当化するという、神の御前で罪を犯すことからは守られています。
どうぞ皆さんの中で「私はこうして共生できるようになった」という方がおられましたら、コメント欄にてお知らせください。お待ちしています。

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