上辺(うわべ)だけの信仰とは何かを知って警戒しよう!

イエスの行われた奇蹟を見て信じた人々の信仰が、上辺だけのものに過ぎないことをご存じであられたイエス様は、彼らを信用されなかったと聖書にはあります。[ヨハネ2:24]
今日は皆さんとご一緒に、上辺だけの信仰とはどのような信仰を指すのかを考えます。

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1.見たから、信じる信仰[2:23]

イエスは「見たから信じた」人々を余り信用しておられなかったようです。
ここには大きな矛盾があるように見えます。
なぜならご自分は次から次へと奇跡を起こしていたにもかかわらず、その奇蹟を見て信じた人々を信用しないとは何事かというわけです。
現代でも、ここを引いてきて「だから奇蹟などは無用の存在である」と言う人もいます。
しかし二つの事実があるのに、一つの事実だけを見て結論を出すのは間違ったことです。
このようなときは大概(たいがい)、自分のうちに既に結論があり、その結論を正当化するために聖書を引用しているに過ぎない場合がほとんどです。

なぜイエスはそれにもかかわらず奇跡を行ったのでしょうか?
それは人々を愛しておられ、人々を可哀想に思ってくださったからです。
「どうせ奇蹟を見て信じた人の信仰は上辺だけのものだから、奇蹟など必要ないのさ」などと、うそぶく人たちは、実は人々を可哀想に思っていないのです。
このような人たちは、奇蹟がどうのこうのと言う前に、まず自分の信仰を省みることが必要なのです。

2.生れ変りを経験していない信仰[3:3]

①福音主義キリスト教は新生経験を強調する

たとえばアメリカ前大統領のブッシュさんです。
彼はボーンアゲイン・クリスチャンとして有名ですが、世界での評判は大変悪いです。
その理由は政策遂行の過程でうそが含まれていたこと、多くの無実の人々を殺したこと、彼を初めとした閣僚のなかに戦争を通して莫大な利益を上げた者が多くいたことなどです。
その反動としてリベラル派の人々によって「生まれ変わったと言っているにもかかわらず、なぜあのような酷いことができるのか?」という批判がされました。
この批判は万人救済主義と結びついて、救いの信憑性(しんぴょうせい)を論じるところまで及んでいます。

ブッシュさんが誤った判断をした原因は「人間の内的生活を変える神の力」を受け入れず拒否したためかもしれません。
しかしだからと言って、神からの救いまで否定することは十字架の否定であり、キリスト教の総否定につながります。
立派な行いをしている者は救われ(ガンジーなど)、信じてはいるが立派でない行いをしているから救われていないと言うのであれば、もはやそれはキリスト教ではありません。
神のお与えになる救いは、悔い改めてイエスを信じるすべての者に与えられるものです。

②キリスト教はつまるところ聖書宗教

神学の役目は、厳密な思考によって単純素朴の信仰を支えることです。
では単純素朴の信仰とは一体どんな信仰でしょうか?
それは聖書を神の言葉と信じる信仰です。
信仰の土台は聖書であるのです。
なぜなら聖書こそ、キリストが生ける救い主であることを証する書物であるからです。

天使の役目がキリストに仕えることであるように、神学の役目は聖書に仕えることです。
天使長のルシファーは有用な存在でしたが、神に背いて悪魔となりました。
神学も同様に、聖書と異なることを教えるなら、それは悪魔的存在・背教的存在となります。
私たちがなすべき礼拝は神礼拝であって、天使礼拝ではないように、神学に信仰の土台を置くのではなく、聖書に信仰の土台を置かなければなりません。

3.霊の生れ変りが、生活にまで及んでいない信仰[3:10]

『人は霊と心と体によってなるもので』(聖書)とあるように、その新生経験が真実のものであるなら、その影響は生活にまで及んできます。
新生経験は『人間の内的生活を変える神の力』[3:10]だからです。
内的生活というと、何か内面的なものに限定されているような誤解を生む恐れがありますが、そうではありません。
内的生活とは、人間のすべての活動を生み出す源泉という意味です。
ですから源泉が変われば、当然表面に出てくるものも変わります。
初代教会の指導者の仕事は、この当然変わるべきものがスムーズに出てくるように指導することでした。
弟子訓練のように、訓練をして無理やり変えるのではありません。
そうではなく、当たり前に出てくるべきものが出てこない場合、阻んでいるものを明らかにし、それを取り除くことによって自然に変わっていくのです。
無理やりに行われるもので、神からのものはありません。
それはみな、人間の側で演じているに過ぎません。

◎『仰(あお)ぎ見て、信じるなら救われます。』[3:15]
死に至るまで、常にイエスを仰ぎ見て、どんなときにも信じ続ける生涯を共に歩みたいものです。