ペンテコステ派ときよめ派の自我の磔殺(たくさつ)の理解

キリスト教の大切な教理の中に「自我の磔殺」という教えがあります。
この教えはホーリネス教会の専売特許とでもいうべきものてす。
しかしこの教えぐらい間違って理解されてきた教えもないと言えます。
自我の磔殺の正しい理解とはどのようなものでしょうか?

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1.キリスト教と人間理解の関係

カウンセリングの中心にある概念は「ありのままでいい」ということです。
どうしても「努力して合格」というところから抜け出ることが出来ない罪人である私たちが、キリストが十字架の上で私たちがなすべき分を果たしてくださったことにより、私たちは「ありのままで合格」の人生を生きることが出来るようになりました。

ですから福音理解とカウンセリングとは切っても切り離すことが出来ない関係にあります。
殊に律法主義的な文化風土を持つ日本にあっては、真の福音理解にもとづいた実践をするためにカウンセリングの学びは必須であるといって良いものです。
カウンセリング的なアプローチをする中で、福音を生きることが出来ると考えます。

2.自我を十字架につけるとはどういうことか?

ありのパパが忘れられない光景として覚えているものがあります。
それはある有名な聖潔(きよめ)派教会の会員の方が「教会の指導として、自我を十字架に付けなければならないと言われる。これをどう受け止めれば良いのか分からない」という質問をされました。
これに対してペンテコステ派教会の牧師は「イエス・キリストの十字架によって、私たちの自我は十字架に付いた。それにもかかわらず自我をもう一度十字架に付けろと言うのはおかしい」と答えました。
皆さんは、このやりとりを聞いて、どう思われますでしょうか?

ありのパパは次のように考えました。

a.この婦人は「自我を十字架に付けよ」という教えに、神経衰弱寸前まで追い詰められた。

b.それにもかかわらず担当牧師の答えを、その方は納得しておられなかった。

c.それは聖書をどのように理解するかという点において、双方がすれ違っていたからだと考えます。

所属教会の牧師はご自身が信じるきよめ派の神学にもとづいて「キリスト者の完全」の説教をしたのです。
それに対して担当牧師はペンテコステ神学にもとづいて、キリスト者の成長について語ったのでした。

d.きよめ派は、自我を十字架に付けるなら喜びに溢れた信仰生活が待っていると教えます。

それだったら「自我だろうが何だろうが十字架に付けてやろうじゃないか」ということで、喜びに溢れた信仰者になることと引き換えに、自我を十字架に付けるという困難な作業を行うのです。

e.しかしこの方はそうならず、神経衰弱に追い込まれました。なぜでしょうか?

それは「(自我を)十字架に付ける」という言葉の定義に鍵があります。
このことが明確に語られている聖書個所はガラテヤ教会への手紙2章20節です。

『私はキリストと共に十字架に付けられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私がこの世に生きているのは、私を愛し、私のためにご自身をお捨てになった神の御子を信じる信仰によっているのです』(新改訳聖書)

多くの人は自我を十字架に付けたら、自我は無くなると考えています。
しかし20節の前後の文脈を丹念に読んでいくと明らかですが、この個所は「死んで終わり。はいそれまでよ」とは言っていないのです。

自我を十字架に付けるとは「今までは神様抜きで私が良いと思うことをしてきた。しかしこれからは何事も神様と相談しつつ、神の御心(みこころ)であると信じるところをやっていこう」と決心することです。
ですから自我は無くなるどころか、ピンピンしていなければならないのです。

あなたの自我が無くなったら、だれが神の御心に従うことを決心し、だれが御心を行うのでしょうか?
ですからこのところの正しい解釈は、死んで無くなってしまうという理解ではなく、キリストに従う生き方を選び取るという理解です。
この理解に立つ限り「まだ自我が生きてる。まだ自我が残っている」という気持ち悪い宗教的マゾヒズムに陥ることは決してありません。

3.「自我を十字架につける」を正しく理解することの大切さ

この婦人は、自我を十字架に付けるという本当の意味を知りたかったのだと、ありのパパは推測しています。
ガラテヤ書2章20節をどのように読んでみても、イエスが私の代わりに十字架に付いてくださったことが、イコール私の自我が十字架に付いたことだとは、どこにも書いていません。
かえってイエスの十字架のゆえに、私は自分を十字架に付けるとはっきりと書かれてあるのです。
言葉は悪いですが、子供だましの教えでは聖書をよく知っている信徒を納得させることは出来ません。
ところで、そのペンテコステ派牧師はわがままな人でした。やっぱり自我が十字架に………以下省略(笑)

人を罪人としてのみ見る人間理解から、全人的存在として見る人間理解へと変わることが、これからの日本の教会の課題ではないでしょうか?
それは人間理解の乏しさが、我が国キリスト教の不振の原因であり、多くの不祥事の温床になっていると考えるからです。

◎平安と祝福を祈っています。

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