空っぽは、空っぽなりに生きる

未信者の年配の婦人に質問されたことがありました。
それは教会での男女関係はどうなっているのかというです。
ありのパパは「はい、年配の婦人たちには母親に接するように、若い婦人たちには姉妹に接するようにと聖書が教えていますので、そのようにしています」と答えました。
そうしましたところ、その婦人は「私は母親のように接してもらうよりは、姉妹のように接してもらった方が良いわ」と言われました。
どうやら女性は、いくつになっても若者として扱われたいと願っておられるようです(笑)。

スポンサーリンク

1.聖書の前提とはどんなものか

ありのパパは救われたばかりのとき、聖書を読んでも余り理解できませんでした。
なぜかと言うと、救われてはいましたが、やる気満々であったからです。
このやる気満々とは、自分の力に対する自信であり、やれば出来ると考える万能感の発露でした。
そうでしたので、聖書は「私は無力である」という前提で書かれているにもかかわらず、「これをやれば聖人になれる」みたいな発想で聖書を読むものですから、いくら聖書を読んでも真意を理解することができませんでした。

その結果、何をやったかというと、聖句のつまみ食いでした。
あちこちから、自分の考えに都合の良い聖句を拾ってきては「なるほど~、やっぱり」などと一人悦に入っていました。
しかしその前後の聖書個所を読むと、その時の自分では理解不能なことが書かれてあるのです。

たとえば教会では「この書簡はホーリネスの教科書と呼ばれている」と教えられているパウロ書簡があるのですが、その書簡には「盗みをやっていた者は、もう盗んではならない」と書かれてあるのです。
これはどう読んでも、現役のクリスチャンに向かって書かれていることであり、その人たちに向かって「もう盗むなよ」と教えているのです。
ありのパパは内心「ホーリネスの教科書にしては、ずいぶん水準が低いな」と思ったのですが、それを突き詰めていくと建前としての信仰が崩れそうだったので、いつか判るときも来るだろうと考えて、その疑問は棚上げにすることにしました。

2.律法主義的生き方と、福音的生き方。

ありのパパが若いとき真っ先に読んだ本が「人生の訓練」という本でした。
読み終わったところ、死にそうになりました(笑)。
当時はその理由を論理的に説明できなかったのですが、とにかくこの本からできる限り遠くを歩まなければ命あるクリスチャン生活は出来ないと感じました。

またウォッチマン・ニーの「キリスト者の標準」という本にも接する機会がありました。
しかし既にウェスレーの「キリスト者の完全」を読んでいましたので、毒をもって毒を制すると言いますか、ウェスレーのものに比べてニーのものは不完全というか、徹底していないと感じましたし、何よりうさん臭さを感じました。
これに対しても出来るだけ遠くに離れていないといけないという直観が働きました。

3.一元的な生き方は聖霊なる神の働きによる

自分の無力を認めた人の、信じた後の生き方はどのようなものであれば聖書的であると言えるのでしょうか。

①自分自身をありのままに受け入れる

自分が功績なしに救われたのだから、自分自身に対して「ここまで頑張ったら認めてやる。これが出来ないお前は受け入れられない。」と言うのを止めることです。
「出来ても、出来なくても、私は良い存在」として自分自身を認め、受け入れ、愛します。

②他者受容は自己受容に正比例する

自分が無力な存在であるにもかかわらず神に救っていただいたのだから、周りの人々に対しても、良い・悪いという二元の壁を取っ払って、みな良い存在であると受け入れることです。
これがパウロが口を酸っぱくして言いたかったことです。
自分が「駄目」であったにもかかわらず救ってもらったのだから「あなたも人を赦し、受け入れ、愛しなさい」と言っているのです。

③無力を認める

「でもなぁ、出来ねぇもんな~」という人よ。
あなたは正しい。しかし、そこで終わってしまったら駄目です。
実はそれが出来ないときは自分をたいしたもんだと思っているときなのです。

ペンテコステ派の信者さんは、こう言うとき「やっぱり聖霊充満ですかね?」と言いがちです(笑)。
しかし勘違いの思い上がりの上に、いくら聖霊を満たしても、聖書が言うような生き方は出来ないのではないでしょうか。

ここは一番、信仰の原点に帰ることです。
a.自分は無力であり、聖い生活を送ることが出来ないと認めた。(悔い改め)
b.しかし神様になら、こんな自分を救い潔めることがお出来になると信じた。(信仰)
c.それで自分の意志と生き方を、神の配慮に委ねることを決心した。(献身と従順)

この三点のうちのどれかがおかしくなっているか、それとも「委ねる」と言いつつ、自分の心の棚卸をすることなく、看板倒れ・スローガン倒れのクリスチャン生活を送っているかのどちらかだと思います。
そのような時、どこに問題があるのか、静まって省(かえり)みることが大切です。
省みるとは、お詫びでも、悔い改めでもありません。
省みるとは、自分自身の良き管理者としての自覚をもって、自分の心と生活を観察することです。
そのようにするとき聖霊なる神が働いてくださり、原因を判らせてくださいます。
明らかになった原因に対して解決策を考え、その解決策を実行します。
このような生き方を続けるとき、必ず神様が栄光を表してくださいます。

◎ただで救われた者には、ただで救われたなりの生き方というものがあります。
その生き方を自分に適用して、自分らしい生き方を実践したいものです。
平安と祝福を祈っています。

スポンサーリンク