万人救済主義の間違い(その2)

万人救済主義を主張する人々が必ず口にするのは「全ての人が救われるのでなければ、神が愛であるということが嘘になってしまう」ということです。
果して本当にその通りでしょうか?
もし万人救済主義がでたらめであり、死んでから神の御前に出たとき「そんなもんはない」と一喝されては笑い話にもなりません。
是非生きている間に、この教義が真実なのか、それとも誤謬であるのかの決着をつけておかなければなりません。
そこで今日は皆さんとご一緒に、この問題をもう一度考えてみます。

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①神の愛を人々に届けるのは宣教の役目

『神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して信じる者を救おうと定められた』[Ⅰコリント1:21](新改訳聖書)

神が権威をもって救いを宣言するのではなく、人が人へと救いを宣べ伝える「宣教」という方法を神は選ばれました。
これが神の定められたことであるのです。

②その宣教を神は教会に委ねられた

十字架でなし遂げられた神の愛を教会を通して人々に宣べ伝え、その結果、人々が悔い改めて信じることを神は願っておられます。

『神の御心は一人も滅びないで、全ての人が悔い改めに進むことです』[Ⅱペテロ3:9]

もし教会が全ての人に福音を届け、その結果として全ての人が悔い改めに進むなら滅びる人は一人もいないことになります。
信じる信じないは人間の自由意志にかかわることですが、少なくとも全ての人に福音を宣べ伝える義務が教会にはあります。
そういうわけで宣教こそは、神の義と神の愛を一つとするものです。

③無責任と偽善

自分たちは何もせず、滅びゆく人々を見ながら高みの見物を決め込みつつ「全ての人が救われるのでなければ、神が愛の御方ではないということになってしまう」と言うのであるなら、それは偽善以外の何ものでもありません。
そんなことを言う暇があったら、教会の宣教の業に参加することです。

④もし信仰をもたない人でも救われるとしたら?

a.宣教は無用なものになります。
しかし大宣教命令は神の命令なのですから、宣教が不必要なものになることはあり得ません。
そうだとすれば宣教を不要なものにしてしまう教えにこそ誤りがあると言わなければなりません。

b.神に従う者は祝福され、神に反逆する者は裁かれるという、神の御心を否定することになります。

c.正しく生きようと心がけた者も、悪を犯し放題だった者も、悔い改めなしに同じように救われるというのであれば、こんな不公平・不真実な神はいないということになります。

⑤「悪い神」という誤った概念

「悪い神」でなく「良い神」であると思いたいがために聖書のどこにもない万人救済主義の教えを無理やりに作り出してしまったのでしょうか?
もしそうだとしたら、神への歪(ゆが)んだイメージを替えなければなりません。
元々あった自分の神イメージに聖書の神の概念を混ぜるのではなく、元々持っていた自分の神イメージを聖書の神概念と全く交換しなければなりません。

⑥旧約聖書と新約聖書の両方を丁寧に読むことの必要

旧約聖書は神が唯一であることを証し、新約聖書はその唯一の神が三位一体であることを証しています。
同様に神の義と神の愛という一見相反しているかのように見える神の御性質も旧・新約聖書の両方を通して読むとき、よく理解できるようになります。

⑦私たちは聖書を通してしか神の御心を知ることが出来ない

そうであるのに聖書に書いてないことを言うというのは自分を神の位置に置くことです。
これは自分を神にしてしまうことであり、決して許されることではありません。

コメント

  1. ひろき より:

    はじめまして。
    僕は今、ジーザスライフハウスに行っています。
    個人的には万人救済論を信じたいですが、何かふっきれないものを感じて悩んでいます。
    それで、ある福音派の本を読むと、地獄もそんなに悪い所じゃない、燃える火は比喩で、救われる人から見たらそう見えるにすぎないと書いていました。
    また、神は人間の自由意志を尊重する為に天国と地獄にわけるので、地獄に落ちる人は落ちた方が幸せな

  2. ひろき より:

    すみません。簡潔に述べます。
    地獄もそんなに悪い所じゃないという考えがありますが、ありのパパさんはどう考えられますか?
    ジーザスライフハウスに通っています。

    • arinopapa より:

      ひろきさん、おはようございます。
      コメントしてくださり、ありがとうございます。

      実は私もそのように考えています(笑)。
      仏教的な地獄の無間地獄とはだいぶ異なるように思います。
      金持ちとラザロの記事を読むと、黄泉にいるのに兄弟のことを考える余裕があったのを見ます。
      しかし肉体的な苦しみはなくても、精神的苦しみが耐えがたいほど大きいのではないかと推測しています。
      生きている間に行った人を傷つける行為が、死後には傷つけられた側から見えるとしたら………………。
      それこそ、地獄の苦しみではないでしょうか。しかも悔い改めるチャンスは永遠にやってこないのです。
      地獄とは、そんな場所ではないかと、虫けらに過ぎない存在である私は思っています。

      これからもコメントしてください。よろしくお願いいたします。
      追伸:
      実名ではなく、ニックネームでお願いします(笑)

  3. arinopapa より:

    ひろきさん、こんにちは。
    ジーザスライフハウスについて、wikipediaで知りました。
    オーストラリアのヒルソング教会の日本におけるブランチ的存在なのですね。
    是非、そちらの教会の様子も教えてください。

  4. ナーガ より:

    はじめまして。こんにちは。
    吉祥寺のカトリック教会に通ってます。
    万人救済かどうかは神様が決める事なのでわからないのでは?

    • arinopapa より:

      ナーガさん、こんばんは。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      「私はこう考える」という時には、同時に「なぜそのように考えるのか」を述べる必要があります。
      ナーガさんのコメントには失礼ながらそれがありません。
      ですから私も答えようがありません。
      なぜならどのような理由でそのように主張されているかがわからないからです。
      よろしくお願いします。

      またコメントしてください。お待ちしています。

  5. Som Oh より:

    長老改革派教会に属しているソムです。
    2点思ったことが有りますのでコメントさせていただきます。

    一つ目は、セカンド・チャンスの概念は必ずしも「死後」に限定して語られてはいないのではないかと思います。
    死に行く過程のどこかで、神のお取り扱いが有るのではないかということを含むと思います。
    死後は裁きが有ることが聖書的に明白ですので、死後に限定してセカンド・チャンスを語るのは、普通に考えると憚られると思うのです。

    二つ目に、万人救済主義は、成立しないと思っています。
    黙示録の記述などを見ますと、明らかに神が介入しているとわかる状況においても、怒りの拳を振り上げる者達の記述が有ります。
    ですから、神の介入で福音を知るようなことが起きても、必ず拒絶する魂が存在するであろうと思います。

  6. Som Oh より:

    連投で申し訳ありません。書き忘れたことが有りました。

    セカンド・チャンスや万人救済主義に私は賛成しませんが、それらの立場もキリストの福音を受け入れて悔い改めるということは前提になっているというのが私の理解です。
    誰でも何でも自動的に救われるという立場ではないように受け止めています。

  7. ありのパパ より:

    こんにちは、ソムさん。
    初めてのコメントをありがとうございます。

    はっきり申しましてソムさんのコメントは何が仰りたいのか明確でないと感じました。
    なぜならセカンド・チャンスや万人救済主義には立たないと言いつつ、セカンド・チャンスを言外に弁護しておられるように見受けられるからです。

    主唱者ご自身がセカンド・チャンスは死後の問題についてであることを明確にしているにもかかわらず、ソムさんが「必ずしも『死後』に限定していない」と言われても、こちらは対応のしようがありません。

    よろしくお願いします。

  8. Som Oh より:

    ご回答ありがとうございます。
    私の意図は、セカンド・チャンスを弁護することではなく、巷の議論を見た経験からは、主唱者以外の立場も有ると思っているというだけのことです。
    そういう経験からの感じたことのシェアであって、何か対応していただこうという考えは有りません。

    • ありのパパ より:

      おはようございます、ソムさん。
      コメントをありがとうございます。

      了解しました。どのように考えようとも、その人にはそのように考えることのできる権利があります。
      その権利を何人も侵害できるものではありません。

      これからもよろしくお願いします。
      またコメントしてください。お待ちしています。