心の傷と否定的態度の関係

ある特定の場所に行くと怒りやすくなったり、ある特定の人に会うとキレやすくなるということはありませんか?
ありのパパには、それがあります。
長い間その理由がわかりませんでした。
ある特定の人に会った帰りに腹立たしく感じたりするのです。
それがあまりにも規則正しい反応であるので、気づかざるを得ないというか認めざるを得ませんでした。

このようなことは難しいカウンセリング理論によらなくても納得がいくことです。
問題は三つあります。
一つ目は今を生きる自分が、過去の傷に引きだされて「今」の自分が生きる関係を傷つけてしまうのをどのようにして防げば良いかという問題です。
二つ目は過去の傷をどのようにして癒していけば良いかという問題です。
三つ目は過去に受けた傷をどのようにして自分の宝物にしていくかという問題です。

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1.どのようにして過去に受けた傷によって引き出される否定的行動を防ぐか?

ある年の教団の夏季キャンプに参加していたときのことです。
食事のとき、中学生ぐらいの少年信徒が「聖会が終わったら琵琶湖を観光したい」と言いました。
それは夏季キャンプがあった場所が琵琶湖の湖畔であったからです。
その時、隣に座っていたその少年の属する教会の牧師の顔色が急に変わり、下を向いたまま、きつい口調で「出来ないと分かっていることをあれこれ言っても始まらない」と言いました。
同じテーブルで食事していた一同は、その言葉に凍りつきました。
その牧師は普段はそんなことを口にするような人では決してないのを、そのテーブルにいた人たちは皆知っていました。

その時はなぜそんなことを言うのか理由が分からなかったのですが、今なら何となくわかるような気がします。
推測でしかありませんが、この牧師が子供であった頃、両親にご自分の希望を伝えたとき「出来ないと分かっていることをあれこれ言っても始まらない」と冷たい応対をされたことが心の傷になっており、それが同じような状況で無意識に引き出されるのではないかということです。

①ある特定の言葉、ある特定の人、ある特定の場所に、癒されていない傷を持つ人は引き出される危険がある

そうならないためにはどうしたら良いかというと、一番肝心なのはどのような状況で自分の否定的反応が引き出されるかを知っておくことです。
多くの人々は真の原因から目をそらし、自分が引き出された対象のせいにします。

たとえば威圧的な親に育てられた人が、頭ごなしに命じる上司のもとで働くようになると、その上司とうまく行かなくなります。
その時、なぜ自分は反発するのか原因を探るのが正しい態度ですが、多くの場合そうせず、上司が悪いに決まっていると思い込んでしまいます。

しかしこのような納得の仕方は非現実的です。
なぜなら理解ある上司である場合は良いのですが、高圧的な上司の場合はうまく行かなくて当たり前ということになります。
そうすると世の中で理解ある上司に当たる確率と、無理解な上司に当たる確率のどちらが大きいかを考えると答えは明らかです。

生きがいのある人生を送りたいと願うなら、原因を相手にではなく自分自身に求める必要があります。
(自分を常に責める傾向のある人には、これは当てはまりません。人間関係がうまく行かないとき、片方にだけ原因があるということは少なく、両方に問題があるのが普通です。しかしこのことが見えず、自分の足りないことばかりが気になる人々は、まず自分自身を赦すことです。そして十分に自分を赦し、潤いに満たされてから①を自分に適用してください。)

②その特定の状況に自分が遭遇したとき、どのように対処するかをあらかじめ決めておく

ありのパパの場合ですと、以前は怒りが爆発しそうになると「怒っちゃいかん。怒っちゃいかん」と唱えていました。
ある時に、それは圧力鍋の蓋を手で押さえているのと同じであることに気づきました。
怒りは押さえることによって何倍にも大きくなり、コントロール不可能になります。

それで今度は怒りが爆発しそうになると「怒ってもいい。怒ってもいい。いつでも怒ったれ」と自分に言い聞かすようにしました。
そうしたところ、ビンゴ!怒りが爆発しなくなりました。

③どのようなことに気を付けておくか?

しばらくの間は、気が付くと自分の中で「怒っちゃいかん」というテープが回っていました。
こうやって怒りをため込む「怒り蓄積システム」というべきものが自動運転していたことを気づきました。
思えば何十年間このシステムに支配されていたことでしょう。
それでどうしたかと申しますと、テープが回っていることに気づくたびに「怒りたいときには怒ってもいい」というテープに交換しました。
そうすると知らないうちに、怒りの感情から解放されていました。ハレルヤ!

2.過去の傷をどのようにして癒していくか?

①どんな傷があるかを正確に知る

これはどういうことかと言いますと、親に頭をたたかれて育った人は成人してから親にたたかれなくなると、今度は自分で頭をたたくようになるということです。
「いや~、私なんか、そんなことないです」と言いながら、左手で自分の後頭部をたたいている人がいますが、それです。
単に頭をたたく癖から解放されるだけなら、ただ気を付けていればそれで済みます。
しかしもっと深い問題である場合は気を付けるだけでは解決できません。

②その一つ一つの状況の中にイエスが私と共におられたことを再確認する

傷を受けた場面の中に、イエスが私と共にいてくださったことを再確認します。
人がなぜ傷を受けるかというと、助けてくれる人がなく、一人ぼっちで試練に体面しなければならないということに耐えきれない悲しさを覚えるのです。
ですから「そうではなかった。あの時にもイエスが共におられて私を見つめていてくださった。私はあの時一人ぼっちではなかったのだ」
このような事実にもとづいた正しい認識を持つことが、「今」を生きる私たちに現実に直面するための力を与えるのです。

過去の傷を癒すかどうかは、どちらでも良いことではありません。
昔の自分が傷ついたとき、イエスが共にいてくださったのを知ることによって、昔の傷が癒されるだけでなく、過去にいてくださったイエスは「今」のときにも私と共にいてくださるという理解につながるからです。

③同じ傷を受けない

親に愛されているのを信じることが出来ずに育った人は、成人してからは自分にとって大切な人を傷つけ、その人が自分を愛さないように仕向けます。
そして大切な人が自分を愛さなくなると「やっぱり、人は自分を愛してくれないんだ」と自分自身に納得させるのです。
このような一文の得(いちもんのとく)にもならない馬鹿な一人芝居を止めねばなりません。
一人芝居をしている限り、癒されていくことはありません。
なぜなら過去の傷を癒している一方で、自分が自分自身に対して新しい傷を与えているからです。
このようなことを「思考のからくり」とか「間違った思い込み」と呼びます。
これの難しいところは自分では気づいていないことです。
ですからどうにかして自分の持っている思い込みに気づく必要があります。

これは光の中を歩んでいくとき、聖霊なる神が「気づき」として与えてくださいます。
歩んでいるときであり、座り込んでいるときではありません。

3.過去に受けた傷をどのようにして自分の宝物にするか?

①この傷がなければ、人様の傷に共感できない

自分が親に愛されずに育ったから、自分の子供は愛情たっぷりに育てようと考えると期待を裏切ることになります。
なぜならこのように考える親は大体において過干渉になるからです。
大切なことは試練に出会わないことではなく、試練にあったとき助けてくれる人がいることです。
それは究極的にはイエスをおいて他にはいないのですが、子供にはそれがわかりませんから親がその代理になります。
悲しいとき、苦しいとき親がいつも一緒にいてくれたということが何にも代え難い体験を子供に与えます。

このような親になる道は、まず親自身が自分が味わった過去を感謝することです。
一つ一つ感謝できる理由を数えます。
ありのパパの場合ですと世界中で誰かが傷ついているかと思うと、いても立ってもいられなくなります。(それでもやっぱり鈍感な者であることに変わりはありません)
それはやはり自分の心に傷があるからだと思います。
自分自身に傷があるからこそ、人々が受ける傷に敏感になることが出来るのです。

②受けた傷を通して、聖霊なる神が働かれるのを体験する

イエスを信じる信仰が絵空事でなく、今を生きる私を癒す原動力であるのを知ることが出来ます。
聖書のどこにも信仰が死んでから役に立つものとは書かれていません。
却って今生きているこの時、ダイナミックに働く神の力を我が内に体験するようにと勧められているのです。

カウンセリング理論は人々が癒されていくガイドラインを示すことが出来ますが、癒してくださるのは神です。
その神と人格的に交わっていくとき、聖霊なる神が内側に働いてくださるのを感じるようになります。
逆に言うと、この傷がなければ、こんなにも素晴らしい体験をすることもなかったと言えるわけです。

③人々にこの体験を分かち合うとき、聖霊も共に働いてくださり、神の栄光を拝する

この傷を癒すために神がしてくださったことを伝えるとき、人々は神を受け入れるようになります。
不思議に同じような傷を持つ人は一目見てわかります。(間違って思い込んでしまうこともあります(笑)。)
自分の心の傷がどのようにして癒されていったかを謙遜に申し上げるとき、必ず真っ直ぐにあなたを見つめる方がおられます。
その方こそ、あなたがご自分の体験を分かち合うべき人です。
「論より証拠」という言葉があります。
また古来より日本人は「あなたの信じる神がどのような方か私は知らない。しかしあなたが信じる神なら、間違いないと私は確信する」と言う民なのです。
このようにして福音が心から心へ人格から人格へと宣べ伝えられていくとき本来の力を発揮するのだと思います。

◎この傷がなかったら、このような素晴らしい神の働きに参与することもなかったであろうと、感謝するときがきっとやってきます。
平安と祝福を祈っています。

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