聖書が教える夫婦と親子の関係とは?

聖書を読んでいるときに、たまたま次の聖句に目がとまりました。

『妻は、主を信じる者にふさわしく、夫に従いなさい』[コロサイ3:18](現代訳聖書)

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1.グループがうまく回っていくためにはどうしたら良いかという視点

他の聖句なら「あっそう」という感じで、次の箇所に視点を移動させるのですが、このところだけはそうはいきません。
心ゆくばかり味わい尽くします(笑)。
そして心の中で「パウロさん、おせっかいだから、どうせ夫の義務についても書いてあるんだろうな」と思いつつ、目を隣の文章にやると案の定、夫の義務についても書いてあります。
余計なお世話ついでに、親と子供の関係についても書いてくれています(笑)。

しかし今日は今まで気づかなかったことを気づかせていただきました。
それはどうやらパウロは「心がけ」を語ることが主な目的ではないということです。
では何かというと、その人が属しているグループ(家庭・会社・教会など)がうまく行くにはどうしたら良いかという視点から書いてあるということです。
これはどういうことかと言いますと、夫婦の関係であるなら、夫としてうまくやる、妻としてうまくやる、という視点以外のものの見方が必要ということです。
それは何かと言うと「夫婦」というグループをうまく運営していくという視点です。

2.夫婦が結婚を続ける場合と離婚してもやむを得ない場合

夫婦のうちのどちらかに責任を負う覚悟がない場合、その夫婦は別れるしかないのでしょうか?
夫が不道徳であっても、回心することを信じて貞淑な妻の役をやり続けるようにとの指導が、これまで教会で行われてきました。
しかし今日のこの箇所からすると、双方のうちどちらかに責任を果たすつもりがないなら、決してうまく行かないということになります。
他の箇所では『未信者の配偶者が去ろうとするなら、それを止めてはなりません。なぜなら誰もその者が主を信じるようになるかどうか分からないからです』[Ⅰコリント7:15,16]と書かれてあります。

これは片方が信者で片方が未信者の場合において適用できる原則です。
しかし両方が信者の場合であっても、例えば不道徳なことをしでかした夫が悔い改めようとしない場合、それでもなお、この夫を信者であると言えるでしょうか。
誰もこの者が悔い改めて神の恵みに立ち返るかどうかを知ることは出来ません。
そういう訳で、夫婦の間に問題があり、その解決のために夫婦のうち一方が協力する意志のない場合、もう既にこのカップルは夫婦とは言えないと、ありのパパは考えています。

3.聖書が教える親子関係とは?

親子関係について、パウロは『子供はどんなことでも両親に従いなさい』と書き、『親は自分の子供にイライラする気持ちを与えてはいけない。それは子供がやる気をなくしてしまわないためである』と続けます。

ここで興味深いのは、親に向かって「子供を自分の言いなりにするのは親の権利であるから、子供を従わせなさい」とは書かれておらず、子供たちに向かって「両親に従いなさい」と自発的従順を勧めていることです。
もし親が、この聖書箇所を盾に、子供たちを強迫的に従順させるなら(これを盲従とか隷従と言います)、必ずのちにツケを支払わされる日がやってきます。
ですから決してそんなことをしてはなりません。

親の義務として「子供をイライラさせないこと」とパウロは言っています。
パウロは独身であったのに、なぜこれが分かったのかを考えると不思議な気もします。
自分の子供時代を省みたのかもしれません。
あるいは(推測に過ぎませんが)キリスト者になる以前に既に妻帯しており、それがキリスト者になるという境遇の激変により離婚を強いられはしたが、子供との交流は続いていたので子供の気持ちがよく分かったのかもしれません。

日本中の親が、子供たちをイライラさせているのではないでしょうか。
ありのパパは今まで、子供たちが勝手にイライラしているのであり、それは子供たちに原因があると髙を括(くく)っていました。
しかしそうではないのです。
子供をイライラさせないでおく責任が、親にはあるのです。

もし親たちが、子供たちをイライラさせないことが自分の責任であると心得て、子供たちに接するなら、すべての家庭で奇蹟が起きるのではないでしょうか。
日曜日の礼拝の後、子供たちを楽しませるために子供たちと一緒にデパートや遊園地や公園に行っているでしょうか?
まさか自分だけの楽しみに時を費やしていたりはしないでしょうね(笑)。

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