心の平安を持っていないと、いくら祈ってもストレスから解放されない

熱心に多く祈ったとしても、そもそも心の深いところに平安を持っていないなら、それは無意味な行為です。
ではどうしたら祈ったら祈っただけストレスから解放されるようになるのでしょうか?

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1.日常生活のストレスの対処法

ありのパパが信仰に入ったばかりのとき、牧師から「平安を得る秘訣はピリピ・ヨンロク」と言われたことを思い出します。
合い言葉のようにも聞こえるピリピ・ヨンロクとは、正しくは新約聖書のピリピ教会への手紙四章六節のことです。

「(主がもうすぐ来られるのだから)何も思い煩うことはありません。もし思い煩うことがあれば、どんなことであれ、私たちの日常生活上の些細(ささい)な思い煩いを、神様は聞いてくださる。だから『聞いてくださってありがとう』の心を持って、その思い煩いを神様に聞いていただきなさい。そうしたらどんなストレス解決法にもまさる素晴らしい平安をもって私たちの心を満たしてくださる」

2.絶対的な心の静けさを持っていることが前提

この聖書箇所の前後を読むと「思い煩うはずがない」のが信仰生活であることが分かります。
しかし私たちが、この地上に生きている限り、様々な悩みがあることも否定できません。

信仰に入ったばかりの頃のありのパパには(少年だったこともあり)それが分かりませんでした。
単純に牧師に言われたことをそのまま受け入れ、そのまま信じました。
そして神の平安を得るために自分の心にある様々な思い煩いを申し上げたのですが、祈っているときは心が平安になったような気になるのですが、しばらくたつと元の木阿弥(もくあみ)でした。

その理由が今はよく分かります。
聖書全体が、福音の内容を信じることによる神との平和ということを述べています。
なぜ福音を信じると心が平安になるのかということに気づきを得ない限り、本当の平安に心が満たされることはありません。
ピリピ・ヨンロクは、心の深いところで神との平和を得ている人が、現実の日常生活の様々な思い煩いに、どのように対処すれば良いかということを教えているのです。
というわけで、そもそも心の深いところに平安を持っていなければ、どんなに多く祈っても神の平安に満たされるはずもありません。

3.本当に分かると行動が変わる

ではどうすれば良いかというと、まず第一に聖書を虚心にそのまま受け入れて、よく読むことです。
私たちの知性も感情も、ある面ではザルのようなところがあります。
「わかった!」と思っても実は分かっていないのです。
本当に分かったというのは、行動が変わったときです。

「怒ってはならない」と礼拝の説教で教えられたお父さんが、「わかった。よしその通り実践しよう」と思います。
礼拝が終わって家に帰ると、子供たちが怒鳴り合いの喧嘩をしています。
お父さんは内心で「あ~あ、怒ってはならないという命令に違反している」と感じ、子供たちに説教を始めます。
しかし説教をしているうちにボルテージがぐんぐん上がり、子供たちに向かって「お前ら!怒ってはならないといってるのが分からんのか~!この馬鹿野郎!」と怒鳴り散らしていました(笑)。

本当に「分かる」と、必ず行動が変わります。
行動が変わっていないなら、本当には分かっていないのです。

4.理解するのと、理解したことを実践するのは別のこと

福音を信じるのと、信じた福音にふさわしく生きていくのは同じことではありません。
新約聖書のほとんどの書簡は、実はこのことが主要テーマとして書かれています。

一年365日毎朝、聖書という洗面器で顔を洗うことです。
そうすると知らず知らずのうちに聖書の考えが感情と知性に浸透し、意志と生き方に反映されてきます。

その次の段階が、ピリピ・ヨンロクの約束にもとづいて様々な思い煩いを神様に聞いていただくことです。
カウンセラーに話を聞いてもらうと料金が必要ですが、神様なら只(ただ)です(笑)。
この地上のどこにも、私たちの些細な悩みを真剣を聞いてくださる方はおりません。
ただ「もう一人の助け主(カウンセラー)」と呼ばれる聖霊なる神だけが、私たちの悩みに耳を傾けてくださるのです。

どうでしょうか。論より証拠です。
「ほ~。そんなもんか」と言っている間は、神の平安を体験することは出来ません。
疑う心があっても、そのままの心で、神様のところに行き、ご自分の悩みをすべて申し上げることです。
ありのパパも、日々そのようにして、かろうじて毎日を生きさせていただいています。
ご一緒に、平安な人生を生きていこうではありませんか。

◎平安と祝福を祈っています。