罪を犯さないで生きるとはスリップしないでシラフで生きるということ

キリスト教で言う「罪を犯さない」とは依存症で言うところの「スリップしないでシラフで生きる」ということです。
罪を犯さないと言うと何か聖人を連想しますが、スリップしないと言うととても現実的で実践的な感じがします。
キリスト教はもともと実践的なものでした。

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1.『罪を犯さない』ということの真意

ある教団の創設者が神学生に向かって良く言っていたのが「四十歳ぐらいまでは『罪を犯さない』ということに焦点を当てて生きることだ。そうしたら必ず実を結ぶ人生を送ることが出来る」ということでした。(私は又聞きです)

これを聞いたとき、ありのパパは真意を理解することが出来ませんでした。
なぜならその当時、福音派のもう一つの大きな潮流であったカルビン神学では「人は罪を犯して当たり前、死ぬまで罪を犯す」と教えていたので、その教えに影響を受けていた、ありのパパは「随分厳しいことを言うなぁ」ぐらいにしか受け止めることが出来ませんでした。

しかし何十年も経ってから、アルコール依存症者の自助グループに出会って、一杯でも酒を飲んだら『あの世行き』という過酷さを知ったとき、確かに罪を犯さないで生きることがどんなに大切かということを納得しました。
また教会成長のために教会のカルト化を推し進めた結果、教会員の人権を侵害する事件が多発したことも、目的のためなら人格を尊重しないという罪がどれほどの大きな傷を人々と教会に与えるかということも知りました。

自分自身に対するものであっても、他者に対するものであっても、神に対するものであっても、どんなに矮小に見える罪であっても罪を犯してはならないのです。
このような理解に従って生きていくことが、罪人である私たちが脱線せずに祝福されて生きていくための唯一の道であることを後になって知りました。

2.遅すぎるということは決して無い

「今頃わかっても遅い!」というサタンの声が聞こえます。
しかしそれに対して三つの反論を行うことが出来ます。

①私はまだ生きている

生きている限り、もう遅いということは決してありません。

②失敗の経験を人々に分かち合うことが出来る

どんなに正しいことも、宗教的訓話として聴かされると人の心に届くことができません。
(かつての私がそうであったように)
分かるように話すことが出来るのは、理解できなかった原因を体験的に知っている人です。

③実践するのに遅すぎるということはない

人生は律法主義的な足し算人生ではありません。
足し算人生ならば、確かに「遅すぎる」「間に合わない」ということがあるでしょう。
しかし私たちは神の恵みによって掛け算人生を生きることが出来ます。
ずっとー100の人生であっとしても、-1を掛け合わせてみてください。
一瞬のうちに+100になるのです。
これが人生最後の日に起きるかもしれないことです。
(もちろん「逆もまた真なり」ですから、注意していないといけません(笑)。)
ですから決して失望してはなりません。

3.罪と罪でないものの見分け方

この問題はとても重要です。
なぜなら神経衰弱的傾向にあるクリスチャンは、聖書が罪と言っていないことを一人勝手に罪であると決めつけて、自分を裁くことがあるからです。
罪を見分けることは一見簡単なように思えますが、実際はそうでもありません。

ありのパパが若いとき(本当にお恥ずかしいのですが)、食堂でメニューを選ぶときがそうでした。
何を食べようかとメニューを見るのですが、自分はカツ丼を食べたいと思うのです。
そうすると、すぐに内なる声が「なぜそんな高いものを食べるのか。食欲を満たすためだけなら卵丼でいいではないか」とありのパパを責めます。
それで中間をとって親子丼を注文します(爆)。
心の中では「神様からお預かりしたお金を無駄に使ってしまった。なんと肉欲に弱い自分であるのか」と嘆いているのです。

これなどは本当に笑い話ですが、こんなことで悩むのはありのパパぐらいかと思っていましたら、そうでもないようです。
若いクリスチャンの方から、同じような相談をいただくことがあるのです。
そうすると、ありのパパは不思議に何だか嬉しくなってしまいます(笑)。
(話が脱線しますが、四群点数法を学んだことによって、栄養学的視点から今何をどれだけ食べればよいかが分かるようになった現在は、何を食べるかについて悩むことがなくなりました。胸を張って親子丼を食べます(笑)。)

健全な物の見方を身につけることが必要です。
聖書が罪だと言っているのに罪ではないと強弁する誤りと、その対局に罪でないのに勝手に罪とする間違いがあります。
典型的な誤謬に飲酒の問題があります。
聖書は酒を健康のため少量飲むことを勧めているにもかかわらず、福音派教会は絶対禁酒を暗黙の了解としています。

両方の間違いに足を取られないように気を付けながら、聖書的実践の道を歩んでいきたいものです。

◎平安と祝福を祈っています。