キリスト教の生命線は聖書そのものに当たる姿勢と聖書を信じる信仰

聖書を正しく理解するには、聖書そのものに当たる必要があります。
そうでなければ、たとえ学者と呼ばれるような方であっても誤った理解をしてしまいます。
聖書を正しく理解する鍵は聖書は誤りのない神の言葉であるという理解に立つことです。

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1.NHKのキリスト教講座のこと

NHKのキリスト教講座で、講師が旧約聖書においてイスラエルの民が元からいた民を皆殺しにしたことを「不道徳極まりない極悪非道の所行」と口を極めて罵っていました。

ありのパパはそれを聞いて、この人の結論は「キリスト教なんかくだらないから、聖書なんか読まない方がいい」というものではないかと感じました。
もしそうであればキリスト教講座の講師など、さっさと辞めてほかの職業を探した方が良いのではないかとも思いました。
この方は言っていることと、やっていることの間に乖離(かいり)があると言われても仕方がないのではないでしょうか?

2.イスラエルの民の行為にはどんな理由があったのか?

それはミデアン人が女性を使って性的誘惑という手段を用いて、イスラエルの民に偶像礼拝を行うようにさせたことです。[民数記31:01~20]

なぜミデアン人がこのようなことをしたかと言えば、イスラエルの力の源が唯一神信仰にあることを見抜いていたからです。
ありのパパなどはお人よしの馬鹿者ですから「そこまで見抜いたあんたはえらい!そこまで見抜いたんなら、もう一越えして、あなたも信じてみたらどうか?」と言いかねませんが、人の心はそんなに素直ではないようです。

3.聖書信仰こそキリスト教の生命線

ウィークポイントとは、そこを尽かれると、あえなく撃沈してしまう弱点とでもいうべきところです。
ですから私たちは自分のウィークポイントを良く知って、生きている限りそのウィークポイントを尽かれることがないように見張っていなければなりません。

①キリスト教にもウィークポイント(弱点)がある

旧約聖書時代のイスラエルの民のウィークポイントは唯一神信仰でした。
では現代教会のウィークポイントは何でしょうか?

それは聖書信仰です。
この聖書信仰を打ち破られたら、キリスト教は無力化されてしまいます。
まさしく生ける屍(しかばね)であり、化石に過ぎません。
人の心を変えることも出来ないし、社会を変えることも、国家を変えることも出来ないでしょう。

②聖書一書の人とは?

もちろん「聖書逐語(ちくご)霊感説」を後生大事に抱え込んでいるだけではなりません。
私たちはみな聖書を読む民とならなければなりません。

昔は良く「聖書一書の人」ということが言われました。
これは動機は良かったのですが、適用に誤りがあったために間違って受け取られてしまいました。
これの本当の意味は聖書に権威を認め、聖書そのものに当たっていくということを指していました。

③聖書に直接当たることの大切さ

現代は忙しい時代であると言われていますが、そうであるからこそ聖書そのものに当たらなければなりません。
他人が聖書を読んで恵まれた感想を読んでも、それで聖書を読んだことにはなりません。

聖書通読の小冊子を宣伝するのに「聖書理解の助けになる」と言われることがあります。
しかしありのパパに言わせれば、助けにならないどころか妨げになりかねません。

なぜかと言えば、霊想書を読むと分かったような気になり、改めて聖書を読もうとは思わないからです。
もし読んだとしても、霊想書に書かれてあることを確認するために読むようになり、パッと聖書を開いて「あぁ、やっぱり」で終わるのが落ちということになりがちです。
時間がないからこそ、聖書に直接当たらなければならないのです。

◎誰かから教えられた思い込みなしに、真っ新(まっさら)な気持ちで朝ごとに聖書を読みましょう。
「読む民は育つ民」です。
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、こんばんは。
    今朝は起きるのが少し遅かったので、コメントする時間がありませんでした。
    先ほど会社から帰ってきたので、本日のブログに対する私の意見を述べさせていただきます。

    >1.NHKのキリスト教講座で、講師が旧約聖書においてイスラエルの民が元からいた民を皆殺しにしたことを「不道徳極まりない極悪非道の所行」と口を極めて罵っていました。
    ありのパパはそれを聞いて、この人の結論は「キリスト教なんかくだらないから、聖書なんか読まない方がいい。」というものではないかと思いました。
    もしそうであればキリスト教講座の講師など、さっさと辞めてほかの職業を探した方が良いのではないかとも思いました。
    結局、この方は言っていることと、やっていることに違いがある人だということです。
    このような人のことを自己一致していない人と呼びます。

    本日は、この箇所が少し心に引っかかりました。

    私は、このNHKのキリスト教講座を観ていないので、誰が講師だったのかとか、その講師の結論がキリスト教や聖書を否定するものであったのか分かりませんが、想像するに、「キリスト教なんかくだらないから、聖書なんか読まない方がいい。」というのは、パパさんがこの番組を観てお感じになられたことであって、実際に、その講師がそのように言ったのではないのではないかな?と思いました。

    もし、実際にその講師が、「キリスト教なんかくだらないから、聖書なんか読まない方がいい。」と番組の中で言ったのだとしたら、私も、パパさんと同じように「キリスト教講座の講師など、さっさと辞めてほかの職業を探した方が良いのではないか」と思うのですが、もし、その講師がそのようなことを言ってはいないとしたら、私の感想パパさんとは少し違ったものになります。

    以下では、その前提にてコメントさせていただきます。

    旧約聖書においてイスラエルの民が元からいた民を皆殺しにしたことを「不道徳極まりない極悪非道の所行」ということを、「口を極めて罵る」ことは少々はしたないと思いますが、しかし、私は、旧約聖書の中での「聖絶」思想については、そのままの形で「神の言葉」として受け止めることには抵抗があります。もちろん、旧約の信仰において「聖絶」という思想は重要な意味を持つことだとは思いますが、しかし、人間の目から見たときに、「老若男女一人も残さず皆殺しにする、ということは、旧約時代の出来事だから、とか、聖書の中で神が命じているのだから、という理由で正当化することはできないと思うのです。その意味で、私は、その講師がその行為を非難したことは理解できます。そもそもNHKの講座はキリスト教を「勉強」するためのものであって「伝道」するためのものではないのですから、ここでその講師が、聖絶に対して極めて「常識的」な評価を下したことは、ある意味で当たり前のことだとも思うのです。

    しかし、私が本当に言いたいのは、そういう「常識的」とか「常識的でない」という次元の話ではなくて、旧約聖書が語る「聖絶」の話をどのように理解し、解釈すべきか、ということなのです。

    福音派の聖書信仰で、聖書をそのまま受け入れるという姿勢は、ある意味で素晴らしいこと、うらやましいことではありますが、一歩間違えるとおかしな方向にも行きかねないと思います。唯一の真の神さまに逆らう者は皆殺しにされてもよい、神さまがそのようにお命じになったのだから、皆殺しは当たり前だ、という考えは、そのまま現代の(現代に限りませんが)私たちに適用することはできないと思うのです。「聖絶すべきものは何か」ということを聖書の記事から読み取った上で、聖書が私たちに何を伝えようとしているのかを考えなければ、先のブッシュ大統領(そしてブッシュを支持するアメリカの福音派)が犯した過ちのように、自分たちの国(そしてキリスト教信仰)が絶対的に正しくて、それに敵対するイスラムは神の敵だ、というような善悪二元論の独善に陥り、イラク攻撃を正当化するための根拠や理由づけを聖書に求めるという、キリスト教の本来のあり方から大きくズレた信仰になってしまいやすいのではないのでしょうか。

    もっともパパさんが言わんとしている気持も分かりますし、パパさんが、聖書に基づいて人殺しを容認しているなんてことは勿論思っていませんが。

    なぜ福音派とリベラル派で、このような違いが出てくるのかと考えてみたのですが、その理由の一つは、福音派が「絶対的」な信仰であるのに対して、リベラル派は「相対的」な信仰だということではないでしょうか。このリベラル派の「相対主義」は、よく福音派からの攻撃材料になるのですが、その点について、リベラル派の立場からの弁明をさせていだだきます。

    リベラル派は「ものごとを相対化する」これは確かにそうです。そして、まさにその点において福音派から非難されるのです。いわく、「信仰が生ぬるい」とか「聖書さえも相対化してしまっている」と言われます。これに対して、私は「はい、そうです(笑)」と答えます。リベラル派は聖書を相対化します。また、信仰をも相対化します。しかし、単にそれだけを言うと、「それ見ろ」と言われてしまいそうなので、少し弁明します。

    まず、リベラル派は、福音派の主張する意味で「聖書を絶対化」してはいません。それは、聖書をないがしろにするとか、いい加減に扱う、という意味ではなくて、「聖書」をそのまま「神の言葉」として神格化しないということです。リベラル派にとって、絶対的なものは「神」「イエス・キリスト」であって、聖書は、その神の言葉の「証言」と理解します。このことは以前にパパさんとの聖書論争で言ったことなので、ここでは繰り返しません。重要なのは、絶対的なのは「神」「イエス・キリスト」だということなのです。そして、人間はそのような「絶対的なもの」「絶対者」の前に立つとき、すべてが「相対化」される、とリベラル派では考えます。これを「神学的相対主義」とか「絶対的相対主義」と言います。そのような「絶対的相対主義」に立つので、リベラル派は、信仰的な矛盾に落ち込むことなく、聖書を「神からのメッセージ」であると同時に「誤りのある人間の言葉」として受け入れることができるのです。

    福音派の「絶対主義」は、一歩間違えると、「神を絶対にする」ところから外れて「自己を絶対化する」してしまう危険性をはらんでいると思います。昨今の福音派教会や牧師のカルト化は、その具体的な表れではないかとも思うのです。

    パパさんに言わせるとそのような態度は自己欺瞞だと思われるかも知れませんが、少なくとも私はそのような信仰の姿勢を持っているのです。そして、そのような立場からすると、NHKの講師の人の話を聞いても、それが「キリスト教講座の講師など、さっさと辞めてほかの職業を探した方が良いのではないか」という批判にはつながらないのです。逆説的な意味で、神学的相対主義は「神を絶対とする」という絶対主義を極限まで突き詰めた思考ではないかとも思います。

    私の言わんとするところを少しでもご理解いただければ嬉しいです。

    長文失礼しました。
    パパさんの純粋な信仰の上に主の祝福を祈ります。

  2. arinopapa より:

    ヒラぴゃんさん、こんばんは。
    コメントありがとうございます。

    絶対化の問題は難しい問題ですね。

    私もブッシュさんのことがなければ、胸を張って「それは違う!」と言うのですが(笑)。

    聖書を絶対化しなければ、神信仰を絶対化することは出来ないというのが、福音派信仰です。

    これは自由主義キリスト教の末路を見ると、正しい理解ではなかったかと思います。

    しかし仰るように聖書の絶対化が、いつのまにか聖書を信じる自分自身の絶対化につながってしまうという致命的な誤りを犯しました。

    これは論理的に言えば、福音派信仰の思考パターンに欠陥があるということになります。

    「ではどうしたらよいか」ということになります。
    道は二つあり、一つは原点に帰ることであり、途中で身につけた余計なものを脱ぎ捨てることです。
    もう一つは今までの神学を基礎にして、新しい展開を組み立てることだと思います。

    どれも「言うは易し。行うは難し。」ですが、この作業なしに、21世紀日本でキリスト教文化の花を咲かすことは不可能であると思います。

    ご一緒に考えてまいりたいと思います。

    追伸:
    キリスト教講座の講師の件ですが、仰る通り、ご自分ではそんなことは言っておられませんでした。
    ただし見ている者が、キリスト教に好感を持つようなものでもありませんでした。
    ヒラぴゃんさんは、「伝道のためではなく、勉強のためだから」と仰いますが、私の本音は「せっかくの伝道のチャンスをつぶしてどうするの!」というものです。
    狂信的福音派も困りものかもしれませんが、少しはキリスト教のことをよく言っても、罰は当たらないのではないかと感じました。

  3. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん、こんにちは。

    >狂信的福音派も困りものかもしれませんが、少しはキリスト教のことをよく言っても、罰は当たらないのではないかと感じました。

    そりゃそうだ(大笑)
    まったくそのとおりです。
    その講師の方も、恐らくは(リベラル派の)クリスチャン、あるいは、クリスチャンだった方だと思います。一般の方にキリスト教を良い意味で紹介したらよかったのに、ですね。

  4. arinopapa より:

    その方は、新正統主義ではなく、自由主義神学に立つ方だと思います。

    何よりキリスト教の抱える問題を自分の問題としていないことに、私は怒りを感じたのかもしれません。

    自分は棚の上に上げて、言いたい放題。お前は一体何者だ!という訳です(笑)。

  5. ヒラぴゃん より:

    ありのパパさん。

    その講師の方は、もしかして田川建三さんではないでしょうか?
    聖書学者なら田川さんか八木誠一さん、教義学者なら高尾利数さんあたりがキリスト教批判の立場に立つ学者さんなので、その辺かな? と思います。

    • arinopapa より:

      了解しました。
      NHKは出演者を選ぶ際、案外鷹揚であると感じます。
      最近は、セカンド・チャンス論で有名な牧師が出ていたこともあります。
      まぁ、いろんな立場の人が出演することによって、バランスをとっているのかもしれませんね。

      追伸: アバターを表示させるようにしました。
      自動生成により表示させています。
      コメント者が自分のアバターを表示させることも可能のようです。
      私はその表示方法を知りませんが(笑)。
      アバター表示がお気に入りでない場合は、言ってください。
      モンスターシリーズもあります(爆)。