聖書を通して福音を伝えようとする時の三つのポイント

聖書を人々に教えるのは聖書を学んでもらうのが第一目的ではありません。
第一目的は人々に福音を伝えるためです。
ではどうしたらこの目的を達成することができるのでしょうか?
そのためには大切な三つのポインがあります。

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1.聴く人々を考慮しつつ聖書を適用する必要がある

旧約聖書にある出エジプトの出来事を教会学校で学んだことがありました。
その際の子供たちの反応は「イスラエルの人たちって、なんて愚かなんだろう」という人を見下したものでした。
そのような子供たちの反応を引き出した最大の原因は、教師としてのありのパパが聖書を人々にどのように適応すれば良いかという理解が不足していたことにありました。

子供たちは手痛い失敗というものをまだ経験していませんから、どういうときに失敗するかよく分かっていません。
ですから子供相手に説き明かすときは、楽しいことについ夢中になって親の言うことが耳に入らず、それで親に叱られてしまったという経験を大抵の子供は持っていますから、その経験に結びつけてお話しすると、子供たちの反応も「あぁ、それよく分かる。そういうことあるよね」となります。

2.どのように人々に伝えるか?

①御霊(みたま)の導きによって

ある大手の管理職をしている男性に、神を信じることについて質問を受けたことがありました。
その人には、ありのパパに対する反発と、「神なんか信じるやつは馬鹿だ」という態度がありありと現れていました。
一瞬祈りましたら、すぐに語るべき言葉が与えられました。

②人生論的アプローチによって

神が話すべき言葉を与えてくださいましたので、その与えられたセリフを棒読みしました。
それは「私たちは人間的な努力で人生は何とかなると考えているものですが、キリスト教はそうではないのです。キリスト教の人生観は、人には乗り越えることが出来ない人生の山が必ず一つや二つあるというものです。だから神がどうのこうのと言う前に人生観の違いが決定的に重要なのです」

ありのパパは良い結末を期待していなかったのですが、その方は私の短いその話を聞くと、突然泣きそうな顔をされました。
そして頭を「うん・うん」とうなずくように振っていました。
この文章を書いていても、その時のことを思い出すと胸が熱くなってきます。

○聖書を二千年前のどこの馬の骨とも分からない民族の物語としてではなく、今私たちが直面しているのと全く同じ問題に苦しみ悩んだ民の物語として人々に伝えていく必要があります。

3.伝えるべき福音と学ぶべき聖書

①私たちが伝えるのは福音(ふくいん)

聖書は伝えるものではなく、学ぶべきものです。
そしてそれは信じる前ではなく、信じた後にすべきことです。

しかし未信者のときに聖書の世界に魅力を感じて惹きつけられるということは大切です。
なぜなら問題を解決する鍵はみな聖書にあるからです。

信仰と聖書は常に結びつけられていなければなりません。
なぜなら神の真理は聖書を通して私たちに伝えられるからです。

②啓示と霊感と照明

神はご自身のみこころを預言者などを通して啓示なさいました。
そしてその啓示を誤りなく聖書に記すために、聖書記者たちに霊感をお与えになりました。
また私たちが聖書を読むとき、誤りなく神の意志を知ることが出来るために照明をお与えくださいます。
このようにして神の意志を私たちは知ることが出来るのです。

私たちが聖書を宗教の書としてではなく、いのちの書として受け止め、日々の生活を送る上での助けを聖書からもらっているなら、私たちは人々に今直面している問題を解決できるものとして聖書を紹介することが可能です。
今日も、そして明日も、聖書を通して福音を人々にお伝えしようではありませんか!

◎平安と祝福を祈っています。