目の前の出来事にどのように対応したら神の栄光を現すことが出来るかと考える

「一日に七回あなたに罪を犯しても、そのたび毎に『悔い改めます』とあたなたのところに言いに来るなら、その人を赦してあげなさい。」[ルカ17:05~10]

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1.赦しの本質とは何か?

イエスは使徒たちに、人を赦すことについて教えられました。
その教えは人間的に言うならば、まさに無茶苦茶であり、到底受け入れられるものではありませんでした。
今なら、「はぁ~?正気ですか?」と言われるかもしれません。
さしずめ、ありのパパならこう言うでしょう。
「もし本当に悔い改めているなら、再び罪を犯さないのではないでしょうか?このような偽りの悔い改めをなす者には、アル中が多くおります。彼らは『悪かった。もう金輪際、酒なんか飲まない。私を許してくれ』と言うのです」とイエスに得意顔で申し上げるでしょう。
皆さんは、この意見のどこに問題が隠されていると思われますか?
ありのパパはこんなことを書きながら、自分の問題点が明らかになり、穴があったら入りたい気分です(泣)。

2.どうやれば相手を赦すことが可能か?

自分には実行不可能であると思われることを命じられるとき、人の反応はいくつかのパターンに分けられます。

①「強い」と「弱い」という二元論に立って、自分の信仰を強くしようと努力する

これは大変分かりやすい反応の仕方です。
入信したばかりのクリスチャンの中には、このような方もおられるのではないでしょうか。
しかし結果は「やっぱり私なんかには、信仰を持つなんて土台無理な話だった」ということになり、信仰を捨て、教会を離れるのが関の山(せきのやま)だと思います。
ちょっと考えればすぐに分かることです。
自分では自分を立派にすることが出来ないことを悟ったからこそ信仰を持ったのではないでしょうか?
そうであるのに、なぜ今になって強くなれない自分を強くしようとするのですか。
本末転倒もはなはだしいことです。
ということで、この道は行き詰まることが明白な道です。

②「大きい」と「小さい」という二元論に立って、自分の信仰を大きくしようとする

これは偽善の道です。
なぜなら①の道と同じく信仰を大きくすることなどあり得ないからです。
あり得ないことをあり得る話にしようとすると、結局それを演じるほかはなくなり、「信仰者の振りをする」クリスチャンになってしまいます。

③御言葉の水準を下げてしまう

聖書に書いてあることは理想論であり、生身の人間には実行不可能な教えであるとする考えです。
これはみんな口に出しては言わないものの、おなかの中では思っていることではないでしょうか。
実はありのパパがそうです。
いつも聖書を読みながら「出来ないことばっかり書いてあるな」とぶーたれているのです。
信仰者の日常はこのような世俗主義との戦いの連続です。
常に意識していないと、気がつくと世俗主義の波に流されているのです。
しかし信仰にいのちがある限り、負けることはありません。
なぜなら、内にいます聖霊なる神が警告を発してくださるからです。

3.二元の壁を打ち壊して一つとする生き方

これは自分に焦点を当てるのではなく、神御自身に焦点を当てながら自分自身を生きる生き方です。
約二十年前、ハワイから牧師が来られました。
その牧師と事務的打ち合わせをするのを横で聞いていました。
日本人牧師はどんな小さいことでも、眉間にしわを寄せて「どういたしましょうか?」と尋ねるのですが、そのハワイから来た牧師は決まっていつも「イッツ、イージー」と言われるのです。
それを聞いていて、ありのパパは愚かにも「アメリカ人て、いい加減」と思ってしまいました。(あほな私でした。)
この方は「鍵は神が握っておられるのであり、私たちは自分のなすべき務めを果たし終えるなら、それで十分である」との信仰をもっておられたのです。

この原則を7回罪を犯して7回謝りに来た人の話に適用するとどうなるでしょうか?

○現実のすべては神が支配しておられ、私が支配しているわけではない。
しかし私が現実生活の中で起きることに対して、どのように対応するかで神の栄光を表すことも出来るし、神の御名を汚すことも出来る。
私は信仰によって、与えられた恵みと力によって、目の前の出来事に対して、神の栄光が現れるような対応を選び取る。
「私が」ではなく「神が」必ず事態を好転させてくださることを信じて、私は神の命令に従う。

この信仰こそ、生きた本当の信仰であるのです。

◎神様が私たちのすべてを支配する主権者であることを信じるところに、生きた本当の信仰があります。
平安と祝福を祈っています。

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コメント

  1. Jクルス より:

    私は思うのですが、イエスへの信仰とは、イエスの教えを私が行うのではなく、イエスが私の内に居てしてくださる。ということ。
     なにか、人間の言葉で表現すると、難しいことのようになってしまうのですが、実のところは、極めて単純素朴なこと。
    私たち人間が余計なお荷物をたくさん持っているから難しいことのようになってしまうのでしょうね。

    ちょっとコメントが的外れでしたら、失礼しました。(的外れは罪ですから、謝罪ですね)

    • arinopapa より:

      Jクルスさん、こんばんは。
      初めてのコメントをありがとうございます。

      コメントしてくださる方には自己紹介をお願いしています。
      当ブログの「コメントしてくださる方へ」をお読みくださり、自己紹介をお願いいたします。

  2. Jクルス より:

    Jクルスの自己紹介
    始めまして、自己紹介させていただきます。
     まず、私自信の教歴を紹介します。
     1993年 聖書バプテスト教会というファンダメンタリズム教会でバプテスマを受けました。
     2006年6月 日本聖公会の教会に移りました。
     2010年6月に 今のカトリック教会に移りました。

     このようなことになった理由は、私自身が真摯に、イエス・キリストへの信仰を求め続けている過程で、わたしたちキリスト者の信仰の本質は、人工的な宗派、教派といったレッテルや、人の思想や思惑で、分断されてよい事ではないということ。
    ましてや、お互いの無理解による、いたずらな対立や論争などあってはならないということです。
    詳しいことは、私のブログメッセージの中で紹介させていただいています。

    • arinopapa より:

      Jクルスさん、こんばんは。

      自己紹介していただき感謝をいたします。
      これからもよろしくお願いします。

      またコメントしてください。お待ちしています。