小集会活動と12ステップを教会の活性化と信仰者の成長に活用しよう!

教会生活を長く続けている人ほど、自身の信仰の成長が乏しいことに悩んでいるものではないでしょうか?
どんなことでも目に見えてグングンと成長していくのでなければ、やる気が失われてしまいます。
ここに真に成長していくための実践的な方法があります。

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1.キリスト者と12ステップ

アメリカのAAの初期の活動において、アルコール依存症者の回復率はとても高かったのですが、現在ではそうでもなくなってきているそうです。
理由としてジョー・マキューはAAが12ステップをはじめの頃のようには実践していないことを挙げています。
多くのAAのメンバーはミーティングに参加することだけで良しとしており、さらに進んで12ステップをやろうとしないとのことです。

この話はどこぞの集まりにも当てはまるのではないでしょうか?
礼拝という名前のミーティングに参加することで満足してしまい、日々の聖書通読や神様との交わりを実践することを止めてしまったクリスチャンという名前の罪人のことです(笑)。

AAでは、ミーティングに参加するだけでは再飲酒しないというところに止まってしまい、アルコール依存になった心の有り様を変えていくことは出来ないとします。
単に飲酒が止まっているというだけでは、環境が急変したり、強い誘惑に出会ったとき、再飲酒してしまう危険があるからです。
そうならないためには12ステップを行うことによって自分の人格を変えていくほかはありません。

2.小集会活動と12ステップ

教会でも小集会活動として年齢別の組会(くみかい)や奉仕毎の集まり(教会学校教師会・役員会・幹事会など)があります。
なかにはセルグループをやっているところもあります。
しかしどこの教会も余りうまく行っていないようです。

うまく行かない原因を、ありのパパなりに分析をしてみました。
それは建前で自分を武装して、自分の本音を話さないことが原因であると考えます。
勿論はじめから自分の本音を話せと言っても話せるはずはありません。
教科書的に「本音を話さなければならない」と迫ってもうまく行くことはありません。

ではどうしたら良いのでしょうか?
それは小集会活動と平行して、小集会参加者が12ステップに個人的に取組むことです。
そして12ステップから学んだことを小集会で分かち合います。
そうこうしているうちに各々のメンバーの信頼関係が出来上がってきますから、本音を語ることも少しずつ出来てくるようになります。

3.人格的な成長と12ステップ

ありのパパは信仰をもってから約35年経つのですが、自分を含めて「100%クリスチャン」というような人に出会ったことがないように思います。

何もないときは良いのですが、いったん何かあると突然人格が豹変(ひょうへん)してしまうクリスチャンもおられますし、日常生活において霊的な部分と世俗的な部分が奇妙に同居しており、そのことに違和感を感じていないかのようなクリスチャンもおられます。

そのようなわけで「キリスト教徒」は存在していても、「キリストに似た者」はいないのではないかと感じるのです。
この点に関しては、この世の人たちがクリスチャンを偽善者だと非難するのは間違っていないと受け止めています。

もし私たちがキリスト教の教理を信奉するだけでなく、キリストの心を心とし、キリストの歩まれたように歩むなら、果たしてどんなことが起きるでしょうか?

4.黙想と12ステップ

いにしえの聖徒と呼ばれた人々は祈りとは別に黙想を長く行いました。
現代のクリスチャンは祈りを熱心に行う人はいても、黙想を行う人はまれなのではないでしょうか?
なかには黙想をしていると悪霊に隙(すき)を与えると言う人までおります。
ありのパパは黙想の実践の有無がキリスト者の霊性に大きな差異を生じさせている理由ではないかと考えています。

黙想はどのように行えば良いのでしょうか?
お祈りでさえ「おいねり」になってしまいがちな私たちに、果たして黙想などという高度なものが可能なのでしょうか。

12ステップの内容を心の中で思い巡らすことが黙想になると思います。
これですと極めて具体的ですから、思いが迷い子になることもありませんし、おいねりになることもないはずです(多分)。

5.12ステップをキリスト者の成長にどのように適用するか?

12ステッププログラムは依存症のためのものです。
擬似アルコール依存症と言われるアダルトチルドレンにも効果があります。

ここで躓(つまづ)いてしまうクリスチャンが多くおられます。
なぜなら「私は依存症なんかじゃないも〜ん」というわけです。
しかし、このようにいう人たちは大切なことを忘れています。
それは「人間は罪を犯すことに対して無力」であるということです。
「いや、私は罪に対して無力などではない」と言う人がいたら、その人はキリスト者ではありえません。
なぜなら自分て自分を救うことができない人類のために、キリストは十字架に掛かって死んでくださったからです。

そのようなわけでキリスト者が信仰の成長のために12ステッププログラムを活用することは可能です。
「私は罪に対して無力です」とステップ1を踏むことができるからです。

◎回復と平安を祈っています。

コメント

  1. 通りすがりの猫 より:

    通りすがりの猫です。こんにちは。

    ははあ、黙想ですか。これは確かに、自分のルーチンワークを変えるときに、ナニナニした場合には、こうやるみたいな事を、少々時間をかけて思いめぐらすと、あとであまり試行錯誤しなくても良いという利点がありましたので、有効な方法かもしれないです。

    ただ、霊的な方法として、具体的なビジョンとか目標とか方向性が、主の前に有効であるかどうかを先に分かっていないと、危険な方法かも知れないという思いもあります。

    つまり、自分の中に間違った見解を持っていると、それを深めてしまうのでは?とも思います。

    そう思う理由は、そういう瞑想を行っていたはずのパリサイ人が立って、異邦人にも割礼を施すべきだというイエスキリストの福音に対立する見解を使徒達に言ったからです。

    もう一つ気になるのは、それが霊的有効な方法だとすると、黙想、瞑想などの方法について、聖書に具体的に書かれていないのはなぜなのかという疑問もあります。

    どう祈るべきかについては、福音書でその姿勢をイエスキリストが言っていますが、結構具体的で、それは動的なイメージがありますが、黙想瞑想というスタティックな方法についての説明が無いように感じられますが、その点については、いかがお考えでしょうか。

    先ごろ、youtubeで、「異言」で検索をかけたところ、異言で祈っている人の脳の状態を調べた結果がありましたが、面白かったです。祈るのに、ふつう言語を駆使する部分が使われていないという結果でした。

    瞑想のときの脳の状態を調べてみたら、面白いかもしれませんね。

  2. arinopapa より:

    通りすがりの猫さん、おはようございます。
    管理人のありのパパです。

    意義深いコメントをありがとうございます。

    >自分のルーチンワークを変えるときに、ナニナニした場合には、こうやるみたいな事を、少々時間をかけて思いめぐらすと、あとであまり試行錯誤しなくても良いという利点がありましたので、有効な方法かもしれないです。

    ○私は気づいていなかったのですが、猫さんは黙想を[思いめぐらす]ことと捉えておられますね。教えられました。
    この思いめぐらすということを、自分の仕事に適用するだけでなく、心の中にあることに適用するのが黙想であると言えるかもしれません。

    >ただ、霊的な方法として、具体的なビジョンとか目標とか方向性が、主の前に有効であるかどうかを先に分かっていないと、危険な方法かも知れないという思いもあります。

    ○その通りであると思います。
    ただ次の点に留意することが大切であると思います。
    すなわち黙想は霊的な方法ではないと言うことです。
    霊的な方法としては祈りのみが許容されている手段だと思います。
    では黙想とは何かと言うことになりますが、それは自分の心を探る手段ではないかと思います。

    今日の文章では、黙想を12ステップに限定しました。
    12ステップは、様々な依存的な傾向にある人が、再びそこに戻らないための手段であると共に、そのような罪に陥る原因となった間違った心の有り様を変えていく手段です。

    現代のクリスチャンは黙想と言うと何か高級な霊的営みのように受け取っている人が多いですが、中世の聖徒と言われる人々は、そんなつもりでは全然なく、ただ再び同じ罪を犯さないようにという切実な目的のために、黙想を実践していたのではないかと、私は想像しています。

    >もう一つ気になるのは、それが霊的有効な方法だとすると、黙想、瞑想などの方法について、聖書に具体的に書かれていないのはなぜなのかという疑問もあります。

    ○霊的有効な方法として黙想を見る限り、聖書のどこにも書かれている箇所を見つけ出すことは出来ないと思います。
    しかし猫さんが仰ったように、黙想を「思いめぐらす」ことと考えると聖書のここかしこに見い出すことができます。
    たとえば「あなたの心を力の限り見張れ。」「気を付けなさい。あなたがたの心が迷い、横道にそれて他の神々に仕えたり拝んだりすることがないために。」「~を思いなさい。」はみな自分の心の中を見つめることを指しています。

    ○12ステップは多くの依存的な傾向に悩む人々に、確実な効果をもたらしています。
    この12ステップを作ったのはクリスチャンです。
    しかしこの人たちはクリスチャンでありながら、アルコール依存症であり続けた人々でした。
    そのような方々が神の導きをいただき、12ステップを生み出しました。
    このような訳で12ステップは、黙想という宝物を失ったキリスト教会にもう一度、生まれ変わった形で黙想という宝物を提供してくださったと受け止めることが出来るかもしれません。

    >先ごろ、youtubeで、「異言」で検索をかけたところ、異言で祈っている人の脳の状態を調べた結果がありましたが、面白かったです。祈るのに、ふつう言語を駆使する部分が使われていないという結果でした。
    瞑想のときの脳の状態を調べてみたら、面白いかもしれませんね。

    ○黙想は自分の心を見つめる手段であり、祈りは神との交わりという霊的な手段です。
    異言は「言い難きうめき」を父なる神に申し上げる恵みの賜物です。
    では「言い難きうめき」とはなんでしょうか?
    それは一つは言語化できない心のなげきを神に打ち明けることです。
    もう一つは抑圧されて自分でも気づいていない、幼年期からの様々な傷を神に申し上げて、心の傷を癒していただくことです。

    またコメントしてください。
    お待ちしています。