勘違い野郎と勘違い女になる二つの間違った思い込みとは?

勘違いの最たるものは、自分の行いは価値があり、自分の存在には価値がないと思い込むことです。
ここから勘違い野郎と勘違い女が生まれます。
そうならないためには自分の行いには価値がないが、自分の存在には価値があると正しく受け止めることです。

キリスト教では「私は価値のない存在です」とか「愛されるに値しない存在です」とよく言います。
欧米から来られた宣教師などが、目に涙をためてそう言うのを何回も聞きました。
しかしありのパパはそれを聞くたびに、心の中で「おかしい。愛されるに価するから愛されたのであって、人間の側でそんなことを言うのは間違っている」と反発を覚えていました。
実際、聖書にも「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」[イザヤ43:4](新改訳聖書)とあり、どこからそんな非聖書的な主張が出てくるのか不思議に思っていました。

スポンサーリンク

1.高ぶりと健全な自己肯定感の違い

カウンセリングを学んでから分かったことですが、人間は存在と行いに分けることができます。
欧米の宣教師は行いに焦点を当てて「私は価値のない存在です」とか「愛されるに値しない存在です」と言っていたのです。
これだとよく分かるし、ありのパパもその通りであると思います。
アル中が回復するかしないかの分水嶺(ぶんすいれい)は、自分に酒を飲まないでいる力がないことを認められるかどうかに掛かっていると言います。
同様に、罪を犯さないで生きる力を持っていないことを認められるかどうかがキリスト教信仰の分かれ目になります。

約20年前に「可能性思考」というものが一世を風靡したことがありました。
これは「私は出来る!」と行いに焦点を当てていました。
これは正しい人間理解ではありません。
健全な人間理解とは、自分の存在そのものは神に愛していただくことが出来るほどに高価で尊い存在であると心から肯定することです。
しかし自分の行いに関しては、正しいと分かっていることを実行する力が自分のうちにないことを認めるのが正直な生き方です。

○出来ないにもかかわらず、出来ると勘違いするとき、人は高ぶりの奴隷となります。

2.へりくだりと卑屈の違い

欧米の宣教師がこのような理解に基づいて「価値がない」と言っているにもかかわらず、日本人クリスチャンはそれを真に受けて(言葉通りに受けとって)「自分の存在そのものが価値がない」と誤って思い込んでいる人が多いように感じます。
もし本当に「自分には生きている価値がない」なら死ぬほかはないわけですが、なぜ死なないかといえば、それは神の憐れみによるのだと言うのです。

このような理解に立ってクリスチャン生活を送るようになると、信仰生活が長くなるほど卑屈になります。
それはそうです。本当は生きる価値がないのに、神のお情けで生かしてもらっていると考えるなら卑屈になるほかはありません。
もしこれが真実であり、聖書にそう書いてあるなら、それもまた仕方のないことですが、実際はそうではありません。
聖書にはこれと真反対のことが書かれているのです。
福音派であろうと、リベラル派であろうと、聖書を神の言葉と認めている限り、このような理解を持つことは絶対に出来ません。

○自分の存在に焦点を当てて自分には価値がないと考えるとき卑屈になります。
へりくだりとは、行いに焦点を当てて、自分には正しいと分かっていることを行う力がないのを認めることです。

3.正直になる生き方とは?

正直に生きるとは、自分の力では罪に打ち勝つことが出来ないのを認めることです。
次のステップは、しかし神になら自分を変えることが出来ると信じることです。
そしてこの神に自分の意志と生き方を委ねることを決心します。

この信仰告白をもっている限り、(自分で出来るという意味で)自分を価値ある者と思うことは決してありません。
(自分で出来るという意味で)自分を価値ある者と思っているときは、この信仰告白を打ち捨てているときです。

「誰でも自分を価値ある者と思って高ぶる者は卑しめられ、自分をつまらぬ者と思ってへりくだる者は神様から誉れを受けるようになるからです」[新約聖書ルカによる福音書14章11節](現代訳聖書)

◎神から誉れを受ける道は、自分は無力であり、神にならこんな自分を変えることが出来ると信じて、自分の意志と生き方を神に委ね続けることです。
平安と祝福を祈っています。

コメント

  1. ミーチャ より:

    ありのパパさん、こんにちは。

    前回は、賛美のときに手を挙げるか挙げないかの長い質問に答えてくださりありがとうございました。
    気持ちが楽になって、その後の司会のときには無理して手を挙げることもしませんでしたが、会衆の中にはちゃんと手を挙げている人もいました。
    今回の、存在と行いについての文章でまた眼が開かれました。
    自分が悔い改め切れていない罪人である事や中々品性が変わらない現実と、「高価で尊い」という聖書の言葉がせめぎあって混乱の日々でした。
    が、頭の中が整頓されました。

    ありがとうございます。

    • ありのパパ より:

      こんにちは、ミーチャさん。

      コメントをありがとうございました。
      またコメントしてください。お待ちしています。